日本は四季の変化に、恵まれている。春は花、夏には蛍、秋の紅葉、冬は雪というと、日本人に生まれてよかったと安堵する。
夏が来た。私は東京の四谷で少年期を送った。夏というと、家の前の路地や、小さな庭に打ち水がされた。
路地に縁台(えんだい)が置かれ、近所衆が涼しげなステテコを穿(は)いて、会話や将棋に興じて縁を深めたものだった。褌(ふんどし)を締めて、暑さを凌ぐために、浴衣(ゆかた)の前をひろげた老人もいた。
男たちはステテコのまま、近所に出かけた。セルロイドの石鹸箱と手拭いを片手に持って、銭湯から戻ってくるのによく出会った。
家の縁側にも、人が集まった。縁側は社交場だった。蝉の声のなかで、団扇(うちわ)を使った。子供たちは庭先で、線香花火を楽しんだ。
人々は気遣い合った。今日の日本では、どのような重要な用があるのか、よく分からないが、いつも宅急便のように全員が急いでいるために、隣人を思い遣る余裕がない。
家族の温(ぬく)もりも大切にしなくなったから、隣人と親しくしようとしなくなった。心が通うお隣りがいなくなった。そのために、住居が周りから遮断された窂となった。
私は子供心に母が箒で、夏座敷を掃いているところを思い出す。箒は女の心の延長だった。電気掃除機では、心が籠らない。
冷房とコンクリートのおかげで、自然を遮断してしまったから、夏木立(なつこだち)、夏蔭(なつかげ)、夏扇(なつおうぎ)、夏掛(なつが)け、夏座敷をはじめとする、涼しげな言葉が忘れられてしまった。
いまは、夏服といって、夏衣(なつごろも)といわない。夏服では夏らしさが、伝わらない。
私たちの身近にあったあの夏は、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。四季が移ろうごとに、自然の繊細さを心で感じたものだった。
主婦が家の前の路地を早朝に掃いて、清々(すがすが)しい箒目(ほうきめ)をつけたから、朝を感じることができた。醜いアスファルトによって覆われてからは、箒目をつけようがない。
あのころは、家の前に出て朝陽を拝む人が、珍しくなかった。昇ったばかりの太陽の神秘的な光が、全身にみちてゆくよろこびが伝わってきた。
褌がなくなってから、日本の男性から男らしさが失なわれた。私は英語遣いを生業(なりわい)としてきたが、「褌を締めてかかる」を英語でいおうとすると、”roll up his sleeves”(袖をまくりあげる)とか、”pull up his socks”(靴下を引き上げる)ということになって、間が抜けてしまう。手先や、足先では、男の大切なものから遠いからだろう。
このところ、日本では和太鼓が流行している。和太鼓の若者たちが、ブリーフや、トランクスを穿いていることが多い。西洋のドラムと間違えているのではないか。
女が和太鼓を打つのも、珍しくない。女が太鼓を打ったり、神輿を担ぐのを見ると、気色が悪い。太鼓も神輿も、神聖な男の力と勢いを象徴するもので、女が穢してはなるまい。
ステテコも、風物詩だった。東京の街頭で男のステテコ姿を見なくなったのは、淋しい。ズボンを穿かずにステテコのままだと、風が通るものだ。
高齢者の男女が暑いのに、ジーンズや、チノパンのスニーカーや、パンツ(このごろでは、ズボンをそう呼ぶ)を穿いているのを見かけるが、西洋乞食(ホームレス)のようで見苦しい。
わが家の小さな庭で、紫陽花(あじさい)が咲いた。今日の慌ただしい人間の営みをよそにして、自然が循環する。自然はくよくよしない。
夏といえば、朝顔だ。江戸時代に千代女(ちよじよ)の「朝顔に釣瓶(つるべ)取られて貰い水」とか、上島鬼貫(うえじまおにづら)の「行水の捨てどころなし虫の声」という句があるが、日本人は虫にも、草木にまでやさしい心を配った。
釣瓶をもう見なくなった。隣家で井戸から木製の釣瓶に入った水瓜を引き上げて、心をこめて振る舞ってくれたものだった。
本来、日本語は「こころ」がもっとも多く用いられている言語であってきた。
「心尽くし」「心立て」「心配り」「心入る」「心有り」「心砕き」「心利(き)き」「心嬉しい」「心意気」「心合わせ」「心がけ」「心延え」「心馳せ」「心根」「心残り」「心様(ざま)」をはじめとして心がつく言葉はおびただしい数にのぼる。世界のなかで、日本語ほど心が組み合わされた語彙が多い言語はない。日本語の際立った特徴となってきた。
また、英語の講義のようになるが、英語でハートheartがついた言葉は、heart attack(心臓麻痺)も入れて、10もない。
日本民族はこころの民だった。人々は心を分かち合って生きた。
人々は下駄の歯が道を打つ音、包丁と俎板(まないた)が響でる音、豆腐屋のラッパや、竹竿売りの物憂い声、草叢(くさむら)の虫の声、梢を渡ってゆく風の音によって、囲まれていた。隣家の風鈴の音が遠く近く聞えた。
いまでは、自動車や、スピーカーなどが発する音によって、間断なく悩まされる。人までが、機械の延長になる。
このごろでは、寿司屋にゆくと、職人がスニーカーと呼ばれる運動靴を履いていて、気色が悪い。スニーカーといわずに、運動靴といってほしい。ついこのあいだまでは、寿司職人が下駄を穿いていたから、簀子(すのこ)を打つ音が快かった。日本らしい音がなくなって、日本人らしさが失われた。
夏――樋口夏(なつ)を思い出す。筆名を、一葉といった。夏は克明な日記を遺した。日本が日清戦争に勝った翌年に、25歳で他界した。その前年に、こう記している。
「安(やす)きになれておごりくる人心の、あはれ外(と)つ国(くに)(註・西洋)の花やかなるをしたい、我が国振(くにぶり)のふるきを厭(いと)ひて、うかれうかるる仇ごころは、流れゆく水の塵芥(ちりあくた)をのせて走るが如(ごと)く、とどまる處(ところ)をしらず」「流れゆく我が国の末いかなるべきぞ」
杜父魚文庫
9946 日本の四季―いま昔 加瀬英明

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