きょうはちょっと昔話を一つ。今から12~13年ほど前のことですが、私はある小政党を担当していたことがありました。政党と言っても、ワンマンな党首の私党的な性質のあるところでした。
当時、私は社会部から政治部に異動してまもなく、ご多分に漏れず、なんなとなくイメージとして、この党首に期待感を持っていました。今となっては全く愚かな話で恥ずかしいのですが、このころはまだ、この党首を政策重視の保守政治家だと思っていたのです。
実際にその言動、立ち居振る舞いに接してみて、そんなものではないということにすぐ気づき、今に至ることはこれまでにも書いてきたので、今回は触れません。現在はむしろ政策など何もない既成の秩序が嫌いな心情左派だろうと考えていることだけは記しておきます。
ともあれ、私はこの小さな党が連立与党の一角を占めているときに担当記者となり、その後、連立を離脱し、さらに党が分裂してさらに小さな政党になる過程を見てきました。党が割れた際には、出て行って新党をつくった人たちが、口々に「政党のカネは人数に応じて分配すべきなのに、党首は一銭もよこさない」と憤っていたのをよく覚えています。
また、もともとこの党首の側近だった人がある飲み会の席で「◯◯のオヤジ(故人、地元にモノレールを引っ張った人)は俺たちが祭り上げているうちに、本当に『雲の上の人』のような手の届かない存在になってしまったが、△△ちゃん(党首)も同じだ。虚像が独り歩きしている」と述懐していたのが印象に強く残っています。
それで今回、何が言いたいかというと、少数与党から少数野党へ、さらにもっと小さな野党になると、ほとんど記事にならなかったということです。担当記者としては、紙面に載ろうと載るまいと日々、夜回り取材をして日中もあれこれ忙しく働き、何とかこの党について記事を書いて紙面に掲載したいのですが、毎日のように当時のキャップやデスクに「いらない」と言われ続けました。
独自ダネとして売り込んでも、どうせ少数野党の政策や方針なんて実現するわけがないのでベタ記事扱いだったり、せいぜい囲み記事扱いだったりしました。担当記者としては成果が出せず(これは私の個人的能力不足も大きかったのですが)、仕事を紙面に反映できず、充足感の持ちにくい日々でした。
当時、取材を通じて言葉を交わしたり、議論したりした議員たちは、今もそれなりの地位にある人もいるけれど、亡くなった人もいるし、落選して何をやっているか分からない人の方が大半ですね。国会議員で順調に当選回数を重ねる人は少数ですから、当然のことなのでしょうが。
このころは、今でこそ連日、紙面をにぎわせているこの党首も、ほとんどニュースにならなかったと記憶しています。そして政界における存在感もどんどん失い、埋没し、半ば忘れられていきました。メディアで、ここ20年間ずっと政局の中心にいたと報じられているのは少々オーバーか、かなり大雑把な表現なのだと思います。
まあ、この政党は私が担当から外れた後、今度は最大野党と合併し、党首も初めこそおとなしくするふりをしていましたが、やがて数年かけて見事、母屋をのっとったのはさすがでした。そうして再びメディアに大きく扱われるようになったという経緯がありました。
きょう、新しい政党の発足準備会合が開かれたとのニュースを見ていて、以上のようなことを思い出しました。まあ、今年は衆院解散・総選挙が行われる可能性が高いので、この新政党も一定の注目は浴び続けるでしょうが……。でも、選挙後にこの政党に加わった議員のうちどれだけが国会に戻ってくるだろうかと考えると、そういう選択をしたのは彼ら自身の責任だと理解しつつ正直、哀れを催します。
あ、誤解されそうなので事前に打ち消しておくと、別に今の首相や与党執行部の肩を持つわけではありません。だって、残った方の人たちだって、選挙では有権者の厳しい審判を受けるのは間違いありませんから。ただちょっと、一昔前のことを思って感傷的になった次第でした。
杜父魚文庫
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