10044 心ゆたかな自立心こそ人なり 加瀬英明

私は大学に招かれて、男女学生を相手にして講義をすることがある。このあいだは「3つのスクリーンのSが、君たちから人間性を奪っている」といって、警告した。
いまでは、テレビのスクリーン、携帯電話のスクリーン、パソコンのスクリーンの3つのSが、国民を堕落させている。
かつてアメリカの占領下で、ハリウッド映画のスクリーン、セックス、スピードの3つのSが強制されて、日本国民から真っ当さを奪ったといわれたものだった。
3つのスクリーンの筆頭は、テレビだ。テレビは番組をつくっている人々が下劣だから、内容も愚かしいものばかりだが、落ち着きをまったく欠いている。
テレビは集中力を奪うテレビは人の関心を、絶え間なく散らす。テレビの虜(とりこ)になると、人生の大切なことに集中できなくなる。
携帯電話が饒舌な国民をつくっている。戦後教育は小学校から、「お話合いをしましよう」と教えてきたが、人はできるだけ無口なほうがよい。言葉はもっぱらエゴを主張するのと、言い訳に使われるから、人から品性を奪う。人は話すほど、利己的になる。
手紙は人間性を回復する
携帯電話で話すと、テレビのキャスターのようにつまらないことを、思いつくままに、連発する。携帯電話を捨てて、手紙を書く習慣をつければ、高齢者も、若者も言葉を選ぶから、思慮深くなろう。
携帯電話とパソコンは、知識をバラバラに解体する。もっぱら輕便さを求めて、知識の破片を取り出すことに用いられる。
今日では、なぜか、たいした用事もないのに、誰もが四六時中、宅急便になったように急いでいる。
そのために、知識を系統立った形で学ぼうとせず、破片を拾い集める。忍耐力を失って、急いでばかりいると、情緒が不安定になって、精神障害をひき起す。
エレベーターに乗っても、食堂でも、どこへ行っても、BGMという音楽の破片――バックグラウンド・ミュージックが、鳴っている。典型的な雑音であって、焦ら立たしい。何ごとも細切れにしないと気がすまない、現代人に適っているのだろう。
日本はテレビの放映を1年間禁じたら、さぞや真っ当な国となることだろう。
原発を停めたから、この夏は電力が不足しよう。節電の方法なら、いくらでもある。テレビの深夜放送と、パチンコ店の営業をやめさせよう。自動販売機も大量の電気を浪費する。駅で切符を発券するほかに、必要がない。
食物は神聖なものだ。本来、免状と同じように、人の手から受け取るべきものだ。
路上でだらしなく飲食することによって、人々がふしだらになっている。野良犬が路上に落ちている屑を、拾って食べているようだ。
私にとって、成田空港をはじめとする巨大空港は、悪夢そのものだ。世界の空港が人間性を没却した
ニューヨークのケネディ空港、ロンドンのヒースロー空港、パリのドゴール空港、ドイツのハンブルグ空港とあげていっても、どの空港も、世界でもっともおぞましい空間となっている。建造物としてまったく無機質で、大きな機械装置のようだ。
どの空港をとっても、個性がない。あらゆる国籍の人がいる。いつも混んでいて、互にまったく縁のない人々が、蟻科の小さな昆虫になったように、無秩序に動きまわっている。
空港の建物のなかには、自然の光もないし、季節も関係ない。現地時間ともかかわりがない。根のない場所なのだ。食事も、どこの空港へ行っても同じ味だ。
人々が身心ともに落ち着くことがないのは、空港をただ通過してゆくからだ。ここでは何かしようとする意欲が、まったくわかない。
空港は24時間締まることがない。24時間営業している、簡易食堂の『すき家』や、ファミレスの『デニーズ』や、コンビニのようだ。若い店員がまるで学芸会で割りふられたロボットの役を、熱心に演じているように、客に対応する。
空港のロボット化はむなしい空港でも航空会社の職員が、マニュアル通りに応接する。プログラムされたロボットのようだ。人とのあいだの触れ合いがない。
このような巨大空港に身を置くと、疲れてしまった時には、自分がどこにいるのか、わからなくなることがある。おそらく1ヶ月後に戻ってきても、まったく同じ光景がひろがっていることだろう。
ある時、私は海外の空港で、国内便に乗り換えるあいだ、5、6分まどろんで、目を覚ました。隣の人に「すいません。私はどこにいるんでしようか?」とたずねた。きかれた方も、「シンガポールかね。いや、バンコックだよ」と朦朧とした声が、戻ってきた。
空港はどこにも根を降していない、都市なのだ。海の港は生き生きとしている
私は生後6か月で両親に連れられて、イギリスへ渡った。ヒトラーがポーランドを侵略して第二次大戦が始まると、3歳の時に邦人家族の引き揚げが行われて、父を残して、母とともに帰国した。往復を船によったから、幼い記憶の底に、港や、船上の光景がある。
港は空港と違って、生き生きとしている。生者の世界だ。海や雲が呼吸している。
潮風が香り、海が輝く。けだるい汽笛が、空気を震わせる。?の群が啼きながら飛びかい、もやいの綱が巻かれてここかしこ置かれている。
港には人の心と、哀愁がある。遣唐使や、出征兵士を万感こめて見送ったぬくもりが、まだ、どこかに宿っている。
東京や、大阪など日本の大都会も、巨大空港によく似るようになっている。先日、私は梅雨入りに備えて、銀座の百貨店の靴売り場に寄った。中年の男性の店員が、応待してくれた。
「ゴム長はありますか?」とたずねたところ、「それは、レインブーツのことでしようか?」と、質された。そして「レインブーツは置いておりませんが、レインシューズなら御座居ます」と、いわれた。これが日本なのか、日本語を使ってほしいと腹が立ったが、仕方なくレインシューズを求めた。
公衆浴場がフランス語になった
私は都心の麹町に住んでいるが、すぐ近くに昔からある公衆浴場が、いつの間にか「ボン・ドゥーシェ」(フランス語で「よいシャワー」)という新しい店名になった。いやあ、ぶっ魂消(たまげ)た。
店内ではフランス香水の悪臭が、たちこめているのだろうか。フランス人は世界のなかで、もっとも不潔な国民として有名だ。パスツールが1865年に細菌を発見してから、ようやくごくたまに入浴するようになった。いまでも風呂嫌いだ。
エクレア造りとか、私が好きな冷いジャガイモのスープであるビシソワーズなどは手本にできるが、風呂となったら、蛮人だ。
今日の日本は、自国語を疎かにして、意味不明のカタコトの他国語を崇めている。
名は体を現す
東京にいると、ガード下の赤提灯の止(とま)り木にでも身を置かないと、自分がいったいどこにいるのか、わからなくなる。巨大な国際空港のようだ。
新しい巨大な塔を「スカイツリー」と呼んでいるが、軽佻浮薄でいやらしい。私だったら「吾妻(あずま)通天閣」とか、「東京通天閣」と名づけただろう。
過去・現在・未来は絆そのものだ
もしかすると、いまの人々は長い長い人類の歴史のはてに、現在という頼りがない時間だけにすがって生活している、はじめての世代なのではないか。
人はついこの間までは過去を重んじ、大切にしたのに、いまでは過去は脱出しなければならない檻のように、みなされている。縦の絆も、横のつながりもない。家族も、檻の1つだ。このごろでは、家族のつながりが失われ、親の墓を守ることもなくなった。
杜父魚文庫

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