東北大学の高橋富雄教授は「日高見国は北上川の流域の肥沃な平野のことだ。岩手県の岩手郡に源を発する北上川は北上盆地真ん中を突っ切り、仙台平野を南下し、石巻市で太平洋に注いでいる。北上川は”日高見川”からくる」と述べた。これが定説となっている。
しかし東大史料編纂所にある「常陸国風土記」の信太(しだ)郡の条には、常陸(ひたち)国は、ひたかみのくにへの道(ひたかみみち)という記述がある。そこには「黒坂命が陸奥の蝦夷を言向け、凱旋して多珂郡の角枯之山まで来たとき、病のため信太郡で没した。黒坂命のなきがらを乗せた車が、没した山から日高見之国に向かった。葬列の赤旗、青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばし虹を引いたやうで、野や道を輝かせた。このことから幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国になった」と詳しく述べている。
日高見は”日の上”のことで、天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国のことを指していた。神武東征によって大和国を平定した後は、日高見国が大和国よりも東の地方を指す意味を持った。常陸国が平定されて日高見国の呼称が、北上川流域・仙台平野と比定されて、さらには北上して北上地方の呼称になった歴史がある。
天皇家の正史である『日本書紀』に出てくる日高見国は、「武内好宿禰、東国より還りまゐきて奉言(まお)さく。東夷の中、日高見の国あり。其の国人男女並びに惟結(かみをあげ)、身を文(もとろ)げて、人と為り勇悍(いさみたけ)、是を総べて蝦夷と曰ふ。亦土沃壌(こ)えて廣し、撃ちて取るべし。」と記述された。
全国的に「佐伯(さえき)氏」の姓が広く分布している。丹羽基二氏によれば佐伯姓は全国で五万。もとはいえば”土蜘蛛”といわれた荒ぶれた種族だったという。常陸国風土記では「大(おほ)の臣の一族の黒坂命が、野に狩りに出て、あらかじめ彼らの住む穴に茨(うばら)の刺を施し、突然、騎兵を放って彼らを追ひ立てた。」とある。この”茨”から、茨城の地名が生まれている。
土蜘蛛は山の佐伯、野の佐伯といわれた精悍な戦闘集団。朝廷軍に降伏した後は、天皇の近衛軍団に編入されたと丹羽基二氏はいう。奈良朝時代には佐伯氏は押しも押されもしない名族となり、弘法大師の空海は佐伯系だという。大化の改新で蘇我入鹿を斬ったのは佐伯古麻呂。
堀江朋子さんの「日高見望景」の書評を書くつもりが、前置きが長くなった。これには理由がある。堀江さんは昭和作家の上野壮夫・小坂たき子夫婦作家の次女。
上野壮夫さんは、明治38年(1905)6月2日、茨城県筑波郡作岡村(現在つくば市)で生まれている。茨城県立下妻中学(旧制・現下妻一高)から早稲田高等学院露文科に入学、プロレタリア詩、文学運動に参加して「黒の時代 ― 詩集」などの作品を残した。
父の生地である日高見国をルーツに持つ堀江さんが東北の日高見を追って「日高見望景」の紀行エッセイを書いたことに不思議な”縁(えにし)”を感じざるを得ない。
堀江さんは十年前に北上市で千二百年以上と伝えられた鬼剣舞をみて心がふるえたという。そこで鬼剣舞は古代蝦夷が朝廷軍と壮絶な戦いを演じて、倒れた鎮魂の舞だと確信している。古代蝦夷の鎮魂の旅は石巻、気仙沼、多賀城、奥州、北上と東日本大災害の被災地と重なった。
それにしても古代東北の歴史をよく調べている。調べあげた史実を足で確認しながら紀行エッセイに仕上げる手法には敬意を払わざるを得ない。
最後の一文で堀江さんは次のように記している。
度々の東北への旅で、私の中の何かが変わった。東北の人々の痛みを、わが身のこととして、分かちあうのは容易ではない。
だが、せめて、思う心を持ちたい。
そして今一度古代には戻れないものの、古代エミシの無念に心を添わせたい。古代そして現代。碧海に沈んだ人々の詠嘆に耳を傾けたい。
杜父魚文庫
10140 書評「日高見望景 堀江朋子」 古沢襄

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