ロンドン五輪での女子柔道の熱戦が世界を沸かせています。日本でもとくに松本薫選手の優勝には全国民が喜んだと言ってよいでしょう。
さてこの女子柔道のオリンピックでの大展開、いまではごく自然なこととされていますが、実は長く険しい歴史がありました。その歴史を私自身が体験しているアメリカの女子柔道の一端と合わせて、書きました。
【あめりかノート】ワシントン駐在編集特別委員・古森義久
■女子柔道の恩人に思いはせ
私の通う「ジョージタウン大学・ワシントン柔道クラブ」での練習相手の一人は米国人女性のアンジー・モーガンさんである。20代後半、小柄ながらよく発達した筋肉の彼女はいつも必死で挑んでくる。なんとかこちらを投げようと全力をあげてくるのがよくわかる。
モーガンさんは数年の柔道歴を積み、背負投げ、小内刈りと鋭い技をかけてくるが、全盲である。難聴でもあり、小さなゴムの補聴器をつけている。だがいつも底抜けに明るい。
「目標はパラリンピックです!」
自分の柔道について明確に語る彼女はミシガン大学の大学院を終え、目の不自由な男女の教育施設でパソコン技術などを教えているという。
このクラブではこうした熱心な女子会員の参加が絶えない。高校生、大学生に始まり、教員、医師、弁護士、航空管制官、最高裁書記官と、職業面でも多彩な 米国女性が集まる。専業主婦も子供もいる。米国の女子柔道全体の活気と多様性の反映だろう。事実、女子の試合は首都ワシントンの地区大会から東部の地域大 会、全米選手権まで実に頻繁である。
米国柔道連盟のタッド・ノルズ弁護士によれば、米国柔道人口十数万のうち4分の1ほどが女性だという。国際的に傑出した選手は少ないが、北京五輪ではロ ンダ・ラウジー選手が70キロ級で3位となり、米国女子柔道で初のオリンピック・メダルを得た。ロンドンでも2010年世界選手権78キロ級優勝のケイ ラ・ハリソン選手の活躍が期待される。
しかしいま日本国民の多くを熱狂させるオリンピックの女子柔道が実は米国女子柔道界の努力で実現するようになったことはあまり広くは知られていない。
オリンピックでは柔道は男子が1964年に正式競技種目となったが、女子は92年まで認められなかった。本家の日本が女子同士の試合や男女間の練習を長年、禁じていたことが大きかった。競技としての女子柔道は欧米で先行し、日本は渋々と従ったという経緯があるのだ。
女子柔道の試合は50年代にオーストラリアで、60年代から欧州各国で本格的に開始された。米国では70年代冒頭である。日本は78年の全日本女子選手 権が最初だった。この流れから女子柔道を五輪種目に入れる運動は米国でまず起きた。欧州は独自の国際大会を開き、それに満足する状況だったという。
米国柔道界でそのために決定的な役割を果たしたのはニューヨークの女子柔道家ラスティ・カノコギさんである。日大柔道部OBの鹿子木量平氏を夫とした彼 女は、女子柔道を五輪の正式種目にするため文字どおり奔走した。80年11月にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで女子柔道初の世界選手権 開催を実現させた。私財をなげうっての献身の成果だった。五輪の正式種目化にはこの種の世界選手権開催が前提条件だったのだ。
ラスティさんの活動は「柔の恩人 『女子柔道の母』ラスティ・カノコギが夢見た世界」(小倉孝保著・小学館刊)という近刊書に詳しい。このすぐれたノン フィクションは2009年に74歳で逝った彼女の生涯を柔道にしぼりながら活写している。私も米国での柔道行事で彼女にはたびたび会っていた。だからロン ドン五輪での熱戦の光景に重ねて、女子柔道の歩んだ道をラスティさんの軌跡としても感じさせられるのだった。
杜父魚文庫
10169 女子柔道が躍動する陰に 古森義久

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