8月15日は対米戦争敗北の日。わたしは決して終戦の日とは言わない。敗戦の日である。負けてアメリカに占領され、その心理的シッポが残ったからこそ、中国・韓国に舐めれてもシッポを振るような外交しかできなくなった。
昭和20(1945)年。玉音放送の前夜、生家から20Kmほどのところにあった土崎[秋田市]の製油所が突然、米軍の爆撃をうけた。
<土崎空襲(つちざきくうしゅう、土崎大空襲)は、第二次世界大戦末期の1945年8月14日夜間から翌15日未明まで、秋田県秋田市土崎港周辺を標的としたアメリカ軍によって行われた大規模空襲である。
秋田市中西部には八橋(やばせ)油田を始めとする現在でも採掘可能な油田が存在しており、最寄りの土崎港は鉄道・海上輸送のいずれにも至便であったため大規模な製油所(現在のJX日鉱日石エネルギー秋田油槽所)が立地していた。
これらは敗戦間際になっても空襲に晒される事無く、無傷のままであった。土崎空襲はこの製油所の破壊を目的として行われた。
空襲は月14日22:30から翌15日3:30頃まで続いた。数回にわたって落とされた爆弾は、100kg爆弾が7,360発、50kg爆弾が4,687発に及んだ。爆撃目標の日石製油所は全滅状態となるなど、港、市街地は大きな被害を受けた。
死者は250人以上、負傷者は200人以上とされている。
この空襲は太平洋戦争最後の空襲(他に大阪、小田原、熊谷、伊勢崎、岩国、光)の一つとされ、また、秋田県で唯一の大規模空襲であった。
土崎では毎年、秋田市戦没者追悼式・平和祈念式典執り行われ、土崎空襲の犠牲者を悼み平和を祈念している。
土崎に隣接する地区・秋田市飯島の寺「雲祥院」には、土崎空襲の爆弾の破片で頭部が削ぎ取られた「首無し地蔵」と呼ばれる地蔵があり、地元の子供達に戦争の爪痕を見せる貴重な史跡となっている。
1979年には「平和を祈る乙女の像」が、秋田港の現在のセリオン(タワー)付近に建立されている。
1981年には、佐々木久春らにより、絵本『はまなすはみた – 土崎空襲のはなし』が刊行されている>。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
私の生家は土崎から20Kmしか離れていない旧八郎潟沿岸の田圃の中。B29は爆弾を投下したあと北進し、丁度八郎潟上空で引き返して行く。
農道に敷いた莚に寝転がって見上げると、燃え上がる製油所の火が機体の下腹に反映して赤く照らしていた。敵の飛行機を見るのはこれが2度目。
1ヶ月前の7月14日の昼頃、艦載機3機が飛来し、奥羽線の貨物列車に急降下機銃掃射を仕掛けたのを見たのだった。
翌日、天皇陛下の玉音放送がったとかで「敗戦」を知った。夏休みで北国もこの日はかんかん照りだった。近くにあった馬の身体を洗う池で足を洗ったことを強烈に記憶している。
あれから76年。9歳は76歳になった。戦争は厭だが、戦争反対と叫んでも戦争は無くならない。戦争を絶対避けようとするから隣国から舐められ領土を簒奪されるザマをみる。
杜父魚文庫
10254 敗戦前夜の秋田空襲 渡部亮次郎

コメント