10326 今夏も『孫たちへの証言』、心痛む  岩見隆夫

夏の盛り、今年も庭の紅蜀葵(別名もみじあおい)が咲き続けている。心のもやもやを洗い流してくれるような、澄明の紅色、大きな花弁、夕暮れにしぼみ、翌朝は落ちてしまう。一日だけの薄命だ。起きぬけ、
「けさはいくつかな」と確かめにいくのが日課になった。一つのときも、四つ五つのときもある。紅蜀葵が咲きやむと、夏が去る。もう一つ、毎夏心待ちにしているものがある。大阪の小さな出版社社長の福山琢磨さんが丹精こめて編む戦争記録集『孫たちへの証言』だ。
今年は第25集で、副題が〈「記憶」は「記録」することで生き続ける〉である。当コラムは第23集以降毎回紹介してきた。昨年から今年にかけての変化について、福山さんはあとがきで次のように記している。
〈応募数が二百五十九編で遂に三百を大きく割り込んだ。10集までは千編を維持していたから、この変化をどう読み解けばよいのか、判断しかねている。減少傾向にあるのは高齢化が原因と考えることができよう。だが、今回は極端である。昨年は三月末の締め切りぎりぎりに、十一日の東日本大震災で急ブレーキがかかってしまった。それでも応募が六百六十一編あったが、今年はその半分にも満たない。単純に高齢化だけでは片付けられない。
やはり、国内の政情不安が気がかりだ。大震災の復興が遅々として進まず、原発の放射能被害の不安も去らない。原発対応の不手際で失脚した菅総理に代わって選ばれた野田総理もマニフェストで馬脚を露わし、挙句の果ては自公と組んでの消費税増税である。これでは原稿に向き合う気持ちにはなれない。そう私は考えるしかなかった〉
二十五年間、全国に執筆を呼びかけてきた福山さんによる、重要かつ深刻な指摘である。政情不安がこんなところにも響いていたとすれば、ただごとでない。
しかも、今回の応募者平均年齢は八十一・〇七歳(昨年は八十・八歳)とじわじわ高齢化が進んでいる。執筆可能な年齢の限度が近づいているとみたほうがいいだろう。八十歳でも敗戦時は十三歳、記憶が確かなうちに、多くのことを子どもや孫たちに書き残してもらわなければならない。
だが、応募の数は少ないが、すばらしい内容が多かったという。収録された六十七編を全部読んだ。死者と無縁の手記はひとつもなく、どれも臨場感にあふれ、六十七回目の終戦記念日を迎えたいまも、記憶がまったく薄れていない筆致に、毎夏のことながら、心痛むものがあった。
伝える次世代側にも問題がある。先日、成人したばかりの孫(男)に、なにかの拍子で、
「日本が戦争に負けたのはいつか、知ってるよな」と問うたところ、
「え、負けたの。知らない」と答えが返ってきて、私は衝撃を受けた。これはまずい。どこがどうまずいか。そこから議論を始めなければならない。
◇ただ耐えて泣きました 十九歳の夏でした
ところで、証言集だが、広島市在住の成田啓子さん(八十五歳)の一文は、〈恐怖の感情なく「死への決意」自分の中へ〉の題で、淡々と戦争の現場を綴っていた。次のような要旨だった−。
大震災で亡くなった従兄弟の葬儀があり、昨年十月、成田さんは気仙沼まで出掛けた。車を降りてガレキの山とそのにおいに、六十五年前の戦争の日を思い出す。
大東亜戦争という名のもとに、成田さんたちは青春を奪われ、学業も自由も愛もない、まるで闇のような毎日が続いた。軍事教練で厳しくしごかれ、どんどん戦争にのめり込んでいった。
仙台大空襲があったのは戦争終結が間近な七月九日の夜だった。成田さんは宮城学院に入学していたが、授業などはまったくできず、勤労動員で働かされていた。二十四時間、着のみ着のまま、モンペをはき足にゲートルを巻いて、眠る時もそのままだった。
天皇の名のもとに死ぬことが美化され、少しも恐れることがないように、頭はマインドコントロールされていたのだ。サイパン島の玉砕から本土空襲が日増しに多くなり、もう地獄のような日々だった。
仙台大空襲の夜は、勤務で、仙台市の真ん中にある県庁の地下一階にいた。物凄い爆弾の裂ける音とB29の大きな爆音や、襲いかかるような響きで建物が揺れ、さすがに今夜あたりはもうダメかもしれないと腹をくくった。隣にあった日赤病院に爆弾が命中して、入院中の若い軍人さんが何人も息を引き取られた。悲しいとか恐ろしいという感情がまったくなく、何時でも死ぬ覚悟が自分の中にあった。
警報が解除になり地下室から外に出ると、蒸し焼きになった人間が折り重なって山のようになっている。その中をかき分けて自宅に急いだあの日のことを忘れることはできない。
それでもまだ焼け野原になった町を勤務に通った。今度はグラマンが低空で襲ってくる。乗っているアメリカ兵の顔がはっきりと見えるほどで、歩いている成田さんたちが機銃掃射の的になった。家路を急いでいた友達が、あっという間にやられた。助けを求めることも何一つできず、成田さんは友人をそのままにして逃げた−。
〈私たちの国は敗れました。この苦しさ悔しさを誰にぶつけることもできずに、ただ耐えて泣きました。私が十九歳の夏でした。八十歳を過ぎての一人暮らしが心配だという娘の言葉を聞き、東京から広島に移ってきました。私の住むマンションからは原爆ドームが見えます。広島にきてしみじみとあの戦争は何だったのかと自問自答しています〉と成田さんは結んでいた。
なお、福山さんは七十八歳の高齢だが、『第26集』の応募を呼びかけている。テーマは〈これだけはなんとしても書き残したい〉だ。締め切りは来年三月末日、字数千六百字以内。問い合わせは大阪市天王寺区東高津町5−17 新風書房証言係(TEL06−6768−4600)まで。(サンデー毎日)
杜父魚文庫

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