民主、自民両党の党首選が本格化してきた。いずれも票の争いだから、結果ははっきりするが、戦後政争史のなかには、ミステリアスな場面がいくつかある。
歴史的な名裁きといわれる。<椎名裁定>がその一つだった。田中角栄首相が金権批判で失脚したあとの後継選びだ。
1974年12月1日朝の自民党本部。後継候補の4人、福田赳夫、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘がそろった前で、椎名悦三郎副総裁は、
「三木武夫君がもっとも適任……」と裁定文を読み上げ、党内が騒然となるなか、あれよあれよという間に<三木新総裁>で落着したのだ。
しかし、ただ、あれよあれよだったのか。真相を知るはずの証人が次々に世を去り、先日、ついに三木夫人の睦子が95歳で死去した。真相を語らないままに。
裁定前後にはさまざまなこと、たとえば椎名や保利茂らによる<長老暫定政権>の画策などがあった。睦子も、<椎名さんの腹づもりは、その後の行動から推して、三木に決めようとすると、党内はてんやわんやになって収拾がつかない。そうすると、暫定政権はわしがやらざるをえない、という読みで事が始まったのだと、私は思います>(「信なくば立たず−夫・三木武夫との五十年」講談社・89年刊)
と椎名の野心に触れているが、もめることなく三木で収まった内情の記述はない。
だが、新証言者が現れる。三木夫妻の側近だった国弘正雄元参院議員。国弘は著書「操守(そうしゅ)ある保守政治家 三木武夫」(たちばな出版・05年刊)のなかで、次のことを明かした。
裁定2日前の11月29日、国弘が東京・南平台の三木邸で睦子と雑談するうち、睦子が、
「いまパパが官房長官を誰にしようかと考えていること、だれも知らないのかしら」ともらしたという。のちに国弘が、
「あの時、もうどこかの筋でちゃんと(三木指名が)分かっているんだなと思った。佐藤栄作さんの筋ではないかと臆測しましたが」と確かめると、睦子は、
「そうじゃなくて、雰囲気で分かったのよ」と否定した−−。
初めて佐藤の名前が登場する。佐藤と三木はもともとソリが合わなかった。池田勇人退陣(64年)のあと、当時の三木幹事長は佐藤後継で動くが、佐藤が総裁3選(68年)を狙うと、三木外相が阻止に立つ。佐藤が、この時、
「考えを異にする人を外相にしたのは、私の不明だった」と切り捨てたのは有名な話だ。
ところで、椎名裁定の1日夕方、佐藤はひょっこり次男、信二を伴い、東京・目白の田中角栄邸を訪れた。<三木>で流れができたとみてとり、唯一つぶすパワーのある田中を口説こうとしたらしい、とメディアは報じ、永田町からは、
「これで決まりだ」という声が漏れた。
なぜ佐藤が。縁戚関係がある。睦子は森コンツェルンの創始者、森矗昶(のぶてる)の次女。長女は安西正夫元昭和電工社長夫人。正夫の兄、安西浩元東京ガス会長の長女、和子が佐藤の次男、信二元運輸相の夫人だ。三木、佐藤両家は政界で反目していても、血脈でつながっていた。あのころ、
「最後は女傑が動き、意に沿って佐藤がダメ押ししたのではないか」という声を聞いたが、確証はない。もしそうだとすれば、睦子はただ一人の女キングメーカーになる。(敬称略)
杜父魚文庫
10406 女キングメーカー? 岩見隆夫

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