三泊四日のつもりで出立した東北旅行だったが、日程を一日短縮して戻ってきた。川崎、沢内、雫石に散らばっていた古沢一族の墓を菩提寺の墓所にまとめるという大仕事だったが、関係者の協力によって捗った。あらためてお礼を申し上げる次第である。
27日の夕方に菩提寺についた。ところが肝心の泉全英大和尚が高熱を発して沢内病院に入院していた。とにもかくにも病院に行ってお見舞いに駆けつける仕儀となった。さらに都合が悪いことには、当てにしていた旅館が一杯で泊まるところもない始末。
菩提寺の大黒様に「今夜泊めて下さい!」。急な話なので大黒様は目を丸くしている。そりゃーそうだろう。夕食の準備もしていないから、戸惑うわけである。「いいんです。熱燗のお酒を二本頂戴できれば、そのまま寝てしまうつもりです」
こんな乱暴な話は、大都会の東京では通用しない。気心の知れた世界で通用する一種の甘え。
とりあえず病院に駆けつけると、前日に39度あった熱が、一晩、点滴をうけたので38度に下がったと意外と元気。ベッドのうえで、私がすべき仕事の手順を次から次へと指示してくれる。
まずは三〇人を越える先祖の戒名と名前・業績を今夜中に確定させて、28日午前中に寺に出入りしている石材店と最終打ち合わせをしてくれ、と和尚は言う。そのうえで29日午前中に雫石町の広養寺の住職とあって、先祖・古沢理右衛門の墓を玉泉寺に移す了解をとってくれ、できれば墓の移転に必要な”魂抜き”の読経をして貰うことだと、病人らしかぬ指示の連発。
墓のことは、ズブの素人の私だから、和尚の指示を神妙に承るしかない。気が重くなってきたが仕方あるまい。寺に戻ったら、大黒様が熱燗をつけてくれた。イカの塩辛と酢蛸のつまみで黙々と酒を流しこんでいたら、「お冷やで申し訳ない」と言いながらご飯まで出して頂いた。暖かい人の情けなのだが、戦後にはこういう関係が薄れている。
食事も早々に終えて、三〇人を越える先祖の戒名と名前・業績を一つひとつ寺の過去帳と照らし合わせて確定作業に入った。あとは二階の部屋で倒れるように寝た。
翌朝、10時半に花巻市の阿部石材の社長と息子が寺にやってきて、新しい墓所の打ち合わせ。西和賀町の高橋繁前町長もやってきて、昼過ぎには最終的な打ち合わせが終わった。阿部石材には、一〇年まえに文学碑の建立で世話になっている。高橋繁前町長もその時の仲間。
人間は一人の力では何もできない。和尚をはじめ多くの仲間の力を借りて、事を進める幸福さをしみじみと感じた。
その夜は宿を沢内バーデンに移した。高橋繁前町長が付き合って泊まってくれるという。雫石町の広養寺の住職は高橋繁前町長が副校長時代の教え子だから、翌朝も寺まで行くよ、と言ってくれる。ほどなくして副町長だった高橋定信さん、私たちの”足”を引き受けてくれた町会議員の高橋雅一さんもやってきて、四人で車座となって、即席の懇親会。ふっと気がつくと時計の針が12時近い。
曹洞宗・広養寺は雫石町で一番大きい。豪商・高嶋屋の墓所がある。平井正道大和尚にわが先祖の墓を守って頂いたお礼を述べて、先祖・古沢理右衛門の墓を玉泉寺に移す許しを乞い、合わせて移転に必要な”魂抜き”の読経をお願いした。
墓に刻まれた古沢理右衛門の戒名は「学迫良休信士」、文化八年七月六日に没している。和尚は文化年間の過去帳を出してくれたが、見当たらない。「この戒名は、門弟たちが沢内村の玉泉寺に行って、つけて貰ったのでしょう。広養寺がつけた戒名なら過去帳に必ず残っています」と正道大和尚が謎解きをしてくれた。
古沢理右衛門の墓の前で正道大和尚が長時間、”魂抜き”の読経をしてくれた。お線香の香りが漂う。これで東北旅行の大仕事が終わったと思うと、にわかに疲労感に襲われた。十代目の私がすべき最後のお勤めである。あとは十一月の雪が降る前に、玉泉寺の新しい墓の建立を待つだけとなった。その時は他家に嫁いだ二人の娘を連れて、新しい墓に祈りを捧げようと思っている。
帰宅して杜父魚ブログを開いた。三日間の休刊で読者離れが気になっていたが、ユーザー数が三万三八六八、読者が増えていて、三万四〇〇〇台も目前にある。
杜父魚文庫
10603 西和賀町と雫石町の旅 古沢襄

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