10622 ロンドンオリンピックで、日本の母が輝いた  加瀬英明

国の栄光を背負ってこそ輝きはます2012・ロンドン・オリンピック大会の熱戦に、世界が涌いた。
朝日新聞はロンドン大会の開幕に当たって、いつものことだが、「個人が背負う『看板』はもはや国家ではなく、国境のないグローバル社会なのだ」と、寝呆けたことを説いていた。
オリンピック競技に参加する選手は、全員が国旗のもとに栄誉を競っていたのではなかったか。もし、国別対抗でなくなったら、ただの遊びになって、どの国民もテレビに齧りついて、応援することがなかっただろう。
朝日新聞は国家観念だけではなく、現実観念が希薄なのだ。
もっとも、今回の大会も、『オリンピック憲章』の理想から逸脱していた。憲章は第2、第5章で、オリンピズムの「目的は人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある(リスペクト・フォア・ユニバーサル・ファンダメンタル・エシカル・プリンシプルズ)」、加盟国が「選挙を実施する権利、良好な統治原則の適用を保証する責任」を負うと、規定している。
世界の現実は厳しい。憲章の規定にもかかわらず、中国や、北朝鮮をはじめとして人権を躊躇している諸国も、加わっていた。
人類の調和は開会式と閉会式
どのオリンピック大会も、開会式と閉会式と、競技という矛盾した行事に分かれている。開会式と閉会式は、「人類の調和」(憲章第2条)をあらわしていた。
だが、いったん競技が始まると、選手はみな歯を食い縛って、全力をだし切る。競技中に作り笑いをするのは、冬季のフィギュア・スケートが例外だ。
これは、スポーツに限ったことではない。人はどのような仕事の場でも、優劣を競い合うものだ。努力する者が報いられる。
朝日さんがオリンピックは「国境のないグローバル社会」だと説いてみても、大会中は毎日のように、1面から社会面まで、日本選手の活躍を中心にした紙面をつくっていた。
競技種目のなかで、ジュードーとケイリンの2つが、日本で生まれたものだ。日本語でJUDO、KEIRINと呼ばれている。
韓国は世界に普及していなかったのにもかかわらず、1988年のソウル大会前から、跆拳道(テコンド)を国をあげて売り込んだ。跆拳道は柔道、空手と違って、足蹴りを中心としている。中国は4000年の歴史を持っているというのに、オリンピックがヨーロッパ生れだから仕方なかろうが、中国の競技は1つもない。
柔道は日本の伝統にもどれ
だが、私は柔道がオリンピック種目となったのを、喜べない。日本では武道は、ただ勝敗を争うだけのものではなく、高い精神性が求められている。道衣は清純な心を表わしているはずなのに、青とは情けない。
世界の武術のなかで、日本においてのみ、技とともに、精神が尊ばれている。日本に独特なものだが、徳川期300年近くにわたって和を重んじた、泰平の世が続いたためだ。
私は大会の中継を観ながら、空手や、剣道がオリンピック種目にならなくてよかったと、安堵した。1964年の東京大会で剣道の演武が展示されたのを、憶えている。空手も幸いなことに、売り込みかたが下手だったから、種目として採用されなかった。
空手の道衣が青くなって、剣道がフェンシングのように、面頬(めんぽう)のうえで頭につけたエレクトロニクスのセンサーが、点滅するのを想像しただけでおぞましい。
競技のエレクトロニクス化は心が失せる
エレクトロニクスは心を滅して、人間を退化させる。携帯電話のメールは、指を2本操って送る。一方的だから、対話ではない。心が不在だ。ロボットからロボットへ送る信号と、かわりがない。
今回のロンドン大会では、日本の男子の柔道選手が敗れて、メダルを逸した直後に、テレビ・カメラの前で「メダルが欲しかった」といって泣いたが、醜態だった。何ごとであれ、国際化は日本の心を蝕む。
ロンドン大会は女性選手参加44%
ロンドン大会は、オリンピック史上最大の女性の大会だった。女性選手が全体の44%を占めたが、かつてない高率だった。
1896年のアテネ大会によって、近代オリンピックの創始者となったピエール・クーベルタンはオリンピックが「男の祭典であるべきだ」といって、女性を排除した。もちろん、古代ギリシアのオンピアードは、男性しか参加できなかった。観客も、男だけだった。
<日本は女性選手の活躍が注目>
ロンドン大会では、レスリング、柔道、サッカー、卓球、バレーボールをはじめ、日本の女性選手の活躍が際立った。男子選手がメダルを獲得しても、テレビがきまったように、母親を取り上げた。日本にまだ希望があると、思った。
幕末から近代日本を築いた英雄たちは、みな、偉大な母によって育てられた。どの母も教育が親の躾けと、寺子屋だけだったのにもかかわらず、教養が高かった。そのような母がまだいると思って、嬉しかった。今日の日本には教育があるのに、教養がない女が多い。
イギリス国内を聖火がリレーされるところを、テレビで観た。
走者のすぐ前を大会のスポンサーのイギリスの銀行、韓国のサムソン、コカコーラの宣伝カーが走っていた。オリンピック村では清涼飲料は、スポンサーのコカコーラの他になかった。“ビッグ・マック”のマクドナルドも、スポンサーだった。
<本旨は均衡のとれた人間を目指す>
欲望民主主義が世界に君臨しているから、オリンピックも巨大な商業イベントとなっている。きっとコカコーラと、ビック・マックを手にして、大型テレビの前に釘づけになって観るのが、「均衡のとれた人間を目指す」(憲章第1条)ことになるのだろう。
古代ギリシア最大の抒情詩人といわれるピンダロス(没前438年)は、オリンピア競技を称えた詩典『エピキニオン』によって、有名である。勝者だけではなく、選手のスポンサーだった貴族や、僭主を賞讃している。この詩は競技の後に、弦楽とともに合唱されたが、今日のCMの先駆けだった。
<オリンピックの歴史と変遷>
やはり古代ギリシアの哲学者クセノファネス(前475年頃没)は、オリンピックで「いくら勝利者が称えられても、(ギリシアの)都市における政治がよくなるわけでなく、濫費に終わるだけだ」と、警告している。アリストテレスは「健康のために適度な運動が必要だが、選手の肉体美と社会の健康は一致しない」と、オリンピックを揶揄している。
そういえば、民主主義――デモクラシー――の語源のデモクラティアは、古代ギリシア語だ。古代ギリシア文明は、市民が享楽にうつつを抜かしたために経済が破綻し、国防意識が希薄なったことによって、崩壊した。
古代ギリシアでは、ゼウスの神域オリンピアで、巫女たちが競技が始まる前に、聖火を採火した。プロメテウスが人間のために天上から火を盗んだのを、表わしたものだった。 
古代オリンピックは、オリンピアだけを会場としたから、聖火リレーは行われなかった。ヒトラーが1936年に主催したベルリン大会に当たって初めて行われたが、ゲッベルスの宣伝省が発案したものだった。
ヒトラーは、はじめオリンピックがユダヤの国際主義の陰謀だとして、開催に反対した。ゲッベルスがヒトラーに「イッヒ・ルフェ・ディ・ユーゲント・デア・ヴェルト!」(私〈ヒトラー〉は西の世界の若者を招集する!)と献策したところ、満面に笑みを浮べて、賛成したのだった。聖火リレーは、ナチス・ドイツの遺産である。
私は全体主義国家がオリンピック夏季大会を主催すると、9年後に崩壊するという法則があると、説いてきた。ナチス・ドイツは1945年に跡形もなく、瓦解した。ブレジネフ書記長が1980年にモスクワ大会を催したが、その9年後に“ベルリンの壁”が倒壊して、ソ連が消滅した。
中国が2008年に北京オリンピック大会を主催したが、2017年に共産政権が崩壊するのではないか。
杜父魚文庫

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