柳田國男の遠野物語の舞台となった遠野市を訪れたことがある。「遠野は十戸(とおのへ)なんだよ」と高橋繁さんは言う。作家・高橋克彦の縁戚だけあって、滅法、東北の歴史に詳しい。古文書も読める前の西和賀町長。
私のポン友。西和賀町を訪れると、いつも宿の同じ部屋に泊まってくれて、朝から晩まで歴史談義。私も負けてはおれない。もっぱら北アジアの歴史について思いつくままにまくし立てる。こんな交友関係が十年以上も続いている。
「遠野は十戸(とおのへ)」という説は初めて聞くが、高橋繁さんの博識ぶりには驚いた。
戸(へ)というのは牧場のことである。馬産がさかんだった青森から岩手にかけて「戸(へ)」のつく土地が多い。これが南部藩の歴史と重なっている。
多くの人が知っているのは、青森県で第二の都市である「八戸市(はちのへし)」であろう。人口二十三万の大都会。
しばらくはウイキペデイアで八戸の歴史を紹介する。
<1191年(建久2年)、甲斐国の南部氏が北東北一帯を源頼朝から賜ったとされているが、南部氏が実際に北東北に移ってきたのは南北朝時代である。1334年(建武元年)、南部氏分家の南部師行が根城を築き、根城・南部氏の祖となった。
根城・南部氏は1627年(寛永4年)、本家盛岡・南部氏の命により遠野に居城を移した。1664年(寛文4年)、南部重直が世継ぎを決めずに亡くなったため南部藩は御家断絶となる。
幕府は南部藩10万石を八戸2万石と盛岡8万石に分け、八戸藩を南部直房に与え八戸城が築かれた。これが八戸藩の始まりである。八戸藩の領地と現在の八戸市の領域にはかなり違いがあり、久慈市あたりまでが八戸藩であった。(ウイキペデイア)>
「遠野は十戸(とおのへ)」の高橋繁説は一応置いておいて、青森県から岩手県にかけての戸(へ)のつく土地は
■一戸町(いちのへまち)→岩手県
■二戸市(にのへし)→岩手県
■三戸町(さんのへまち)→青森県
■五戸町(ごのへまち)→青森県
■六戸町(ろくのへまち)→青森県
■七戸町(しちのへまち)→青森県
■八戸市(はちのへし)→青森県
■九戸村(くのへむら)→岩手県
四戸(しのへ)だけがない。四は”死”に通じることから、忌み嫌われたというのが通説となっている。ふたたびウイキペデイアによると
<「戸」とは「牧場」の意であるとも言われる。 戸制が施行された地域は「糠部の駿馬」といわれた名馬の産地で、馬がどの「戸」の産かを示す「戸立(へだち)」という言葉も生まれるほど珍重され、源頼朝が後白河院に馬を献上した際、後白河院が「戸立」に非常に興味を示したと『吾妻鏡』にある。(ウイキペデイア)>
「戸(へ)」は馬がどの産地のものか示す言葉というのは説得性がある。
さて、「遠野は十戸(とおのへ)」の高橋繁説だが、
<「遠野」については、近年の研究で「とおのへ遠野」と呼ばれていたことが明らかとなり、糠部に宗家としてあった「根城・南部氏」が遠野へ領地を移されたことから一つの説とされている。
しかし、一戸から九戸までの数字は順番であり数量ではない。もし「十戸」があったとすれば、それは十番目を意味する「じゅうのへ」であって、数量を意味する「とお」ではないため、元々「十戸」は無く、場所も離れている「十和田」「とおのへ(遠い戸の意)遠野」説には無理があるとされている。>とウイキペデイアでは否定的。十戸は(とおのへ)でなく(じゅうのへ)という別説を唱えている。
ウイキペデイアがすべて正しいわけではないから、十一月には西和賀町に行くつもりでいるので、また「遠野は十戸(とおのへ)」説で高橋繁さんのご高説を聞く楽しみが増えた。
杜父魚文庫
10626 「遠野は十戸(とおのへ)なんだよ」 古澤襄
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