10667 「人事の佐藤」から半世紀 岩見隆夫

人事の季節が過ぎて、年末政局に入っていく。野田佳彦首相と安倍晋三自民党総裁のどちらが主導権を握るか、人事の巧拙も当然響いてくることだろう。
1日夕、NHKラジオの番組で野田第3次改造内閣の解説をした。ファクスで送られてくる街の声のなかで、福島の女性が、
「細野さん(豪志・前原発事故担当相)はなぜ代わったのですか。残念です。代表選は降りたのに、どうしてなんでしょう」と問いかける。細野は代表選候補に担がれながら、
「福島のことがどうしても頭から離れない」と出馬を断念、今回はあっさり政調会長に横すべりした。
「たしかに、お気持ちは……」と言うしかない。野田人事の弱点がのぞいていた。
昔もいまも、トップリーダーは人事で悩む。約半世紀前、<人事の佐藤>と呼ばれたのは佐藤栄作首相だが、そんな言われ方をした首相はほかにいなかった。
改めて、8回にわたった佐藤の党役員人事、組閣・改造を点検してみると、起用した党四役(副総裁を含む)が19人、閣僚は119人にのぼる。
そのなかに、心棒になる直系グループがいて、交代で要職をこなした。保利茂、橋本登美三郎、愛知揆一、松野頼三らだ。それと後継をうかがう2本柱の田中角栄と福田赳夫、これら6、7人が7年8カ月に及ぶ最長不倒記録の政権を支えたのだった。
佐藤は有能な側近に恵まれる運の強さがあったが、用兵術にもたけていた。たえず「議員名鑑」をポケットに入れ、政治家の私生活情報にも通じ、<早耳の栄作>と言われた。
だが、長期政権と縁がなくなった昨今は、佐藤流儀は通用しない。民主党政権の3年間も佐藤時代に似て、3人の首相は岡田克也、仙谷由人、前原誠司、枝野幸男、安住淳、玄葉光一郎、細野豪志ら6、7人のやり手をたえず要職に就けたが、
「ほかに人材がいないのか」と逆に批判にさらされる。
ただ、佐藤のころといまも共通しているのは、人事が政権内部を固めるのを最優先している点だ。国益第一でなく、内向きである。
内向きといえば、最近驚かされたのは、すでに引退表明している森喜朗元首相の打ち明け話だった。(1日付「産経新聞」)
党首選も広い意味の人事だが、森はさきの自民党総裁選で、「石原さん(伸晃・当時幹事長)を応援しなきゃならない約束があったんだよ」と打ち明けた。
昨年3月、東京都知事選の直前になっても、石原慎太郎知事は不出馬の意思が固く、自民党執行部が頭をかかえる。谷垣禎一総裁の頼みで、森は息子の伸晃を伴い説得に出向いた。
「ここで都知事を降りたら幹事長の伸晃君のためにならない。彼の首相の芽はなくなるよ」と森が言うと、最後は折れ、
「必ず息子を頼むよ」となった。これが約束。知事に残ってくれたら息子を首相に、という一種のバーゲンだ。肝心なことが内々の話で決まっていく日本的人事、もはや限界にきているのではないか。
適材適所主義を徹底させなければ、この国は危ういと思う。その試みが過去になかったわけではない。
内閣の要(かなめ)である蔵相(いまの財務相)というポスト。戦前、名財政家の高橋是清は、山本・原・田中(義一)・犬養など6内閣で蔵相をつとめ、途中首相にも就き、蔵相のまま2・26事件で暗殺された。適材の典型だ。
戦後、佐藤内閣では池田前内閣からの引き継ぎで田中角栄が最初の半年だけ蔵相、あとの7年間は福田赳夫と水田三喜男の2人による交代だった。やはり適材主義だ。
また、田中内閣の愛知蔵相が第1次石油ショックのさなか急死すると、田中首相は躊躇(ちゅうちょ)なく政敵の福田に後任を頼む。福田が就任条件として日本列島改造論の旗を降ろせと求めると、田中は、
「わかった。撤回する」と約束した。やはり思い切った適材起用だった。
小渕恵三首相。組閣にあたって、宮沢喜一元首相の私邸まで出向き、蔵相就任を懇請した。
「年寄りが出る幕ではない」と宮沢は固辞したが、小渕の熱意にほだされる。メディアは<平成の是清>と評した。
それが民主党政権になると、3年で藤井裕久、菅直人、野田、安住、城島光力の5人、コロコロに近い。国難のなか、首相、財務相、外相には、世界に通用する<日本の顔>がデンと座ってほしいのだ。(敬称略)
杜父魚文庫

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