珍しく午前二時に目が覚めた。手元にある「北条九代記」を読んでいる。江戸期の作とされるこの本は、いつ読んでも面白い。原本現代訳なのだが、鎌倉幕府の創業から滅亡に至る百五十年間の歴史を要領よく簡明に綴っている。
読んでいるのは、巻第十から十一の始めに「蒙古襲来」の記述。戦時中に「元寇(げんこう)」と教えられたが、鎌倉時代や室町時代の文献中では「蒙古襲来」が多い。「元寇」の呼称は徳川光圀が編纂した『大日本史』からである。
「北条九代記」は「この頃(文応元年)、外国では北狄(ほくてき)の蒙古が起こり、中国を征服して「大元国」と名乗った」という書き出しで、蒙古襲来の序章が始まっている。
しばらくは蒙古の祖先の記述があって、テムジン(ジンギス汗)が西夏を従え、金国を侵入し、高麗を降伏させて六十六歳で病死したとある。金国を滅ぼしたのはオゴタイ、ついでフビライが宋国を滅亡させたと、教科書のように簡明な記述となっている。
すぐ「蒙古襲来」の戦記にならないところが面白い。フビライが即位し、都を燕京に立てて国号を「大元」と名乗った。そこで高麗を案内役にして日本に書簡を送り、日本も蒙古大元に従って貢物(みつぎもの)を献上するようにと企てたが、高麗王は「日本は海路はるかに隔てていて、すぐに通じるというわけにいかない」と申したので沙汰やみになった。
この頃、世間は波風立たず、落ち着いており、京都では楽人が舞楽を演奏し、日本の辺境の地までことごとく天下泰平の声が広がっていた・・・と何やらいまの平和な日本のようである。
こうした折りに蒙古大元は、沙汰やみとなっていた書状を日本に送ってきた。このいきさつは「北条九代記」にはない。事実は高麗人の元朝官吏趙彝(ちょうい)が日本との通交をフビライに進言したことによる。朝鮮半島南部の慶尚道咸安(かんあん)出身の趙彝は日本の情報も持っていたというが、高麗王が難色を示した日本との接触をフビライ側近の高麗人が蒸し返したことになる。
蒙古大元の書状は鎌倉幕府に伝えられたが、幕府は宮中にお伺いを立てている。当時は外交は朝廷が司り、これに従って幕府は蒙古国書を朝廷に回送したことになる。京都御所における評定は連日続けられた。
その一方で幕府では「蒙古人が凶心を挿んで本朝をうかがう」ので用心せよと御家人に通達している。鎌倉の建長寺などには宋から禅僧が渡来しており、これらの僧侶による進言や、中国大陸におけるモンゴルの暴虐などの情報があったという。
亀山天皇は勅命を下し、宰相の菅原長成が蒙古大元への返書を書いたのだが、幕府は「蒙古の書面はすこぶる無礼である」と朝廷から送られた返書を握りつぶしている。返書を送らなければ、蒙古大元は日本との通交をあきらめるとみたのであろう。
文永七年、鎌倉将軍・惟康王は従三位を賜り、将軍家は鶴が岡八幡宮に美しく装いを飾り立てて参詣、「近年天下太平であることの証拠」と多くの人が喜び、大名・諸侍たちは皆が永楽万歳を歌い、酒をくみかわして大いに楽しんだとある。
その喜びは文永八年に元朝皇帝使の趙良弼らが蒙古大元への服属を命じる国書を携えてやってきたので消し飛んだ。京都と鎌倉の間に飛脚が毎日のように往来し、ただならぬ世情となった最中に、北条時宗に家督を奪われた兄の北条時輔の反逆事件が発生した。
時宗の手勢が時輔の一族を一人も残さず討ち取って反逆事件が納まったが、蒙古襲来を前にした国内政治の乱れといえる。
文永十一年、筑紫の探題が早馬を仕立てて六波羅に「蒙古の賊船が、大将二人、大船三百艘、早船三百艘、小船三百艘、人数にして二万五千人が、すでに日本征伐のためにとも綱を解いて、海を押し渡ってくると聞いています。ご用心が必要です」と告げてきた。
蒙古襲来はモンゴル帝国(元)とその服属政権となった高麗王国によって二度に渡り行われた日本侵攻で一度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、二度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)。
ウイキペデイアによると元朝の官吏・王惲は、元寇により伝え聞いた武士の特徴を「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れずと記している
一方、『八幡愚童訓』には、この時の元軍の様子を「鎧が軽く、馬によく乗り、力強く、豪盛勇猛」で、「大将は高い所に上がって、退く時は逃鼓を打ち、攻める時は攻鼓を打ち、それに従って振舞った」とある。また、退く時は「てつはう」を用いて、爆発した火焔によって追撃を妨害した。「てつはう」は爆発時、轟音を発したため、肝を潰し討たれる者が多かった。
クビライは高麗に命じて日本へ派兵する艦船を作らせ、半島南部を中心に兵站基地となる采邑・奥魯(アウルク)を設けて食糧などを供給させた。この時の艦船の建造費は高麗が負担し、当初は南宋遠征に用いるはずであったものや耽羅島遠征にも使われた分も合わせて、大小900艘と言われる船をわずか半年で段階的な突貫工事で完成させた。
文永十一年十月五日、元軍は対馬の小茂田浜に上陸。 対馬守護代・宗資国は80余騎で応戦するが戦死し、元軍は対馬全土を制圧して人々島人を多く殺害した。
十月十四日、対馬に続き、元軍は壱岐を襲撃、壱岐守護代・平景隆は100余騎で応戦するがかなわず、翌日、樋詰城で自害し、元軍は同島を制圧する。
日蓮の建治元年8月の書簡では、《壱岐対馬九国の兵士並びに男女、多く或は殺され或は擒(と)られ或は海に入り或は崖より堕(お)ちし者幾千万と云ふ事なし》とある。
対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。蒙古襲来は二度にわたる台風襲来で元軍が海の藻屑と消えて鎌倉武士団の勝利となったが、「元史」では、文永の役に関する記述は僅かにしか記載がない。
『元史』日本伝によると、元軍は日本軍を破ったものの終日の激戦で軍の編成が崩れ、また矢が尽きたため、四境を略奪して捕虜を得ただけで撤退したとしている。負け戦だったから記述が少ない。日本では「神風が吹いた」と信じられ、「北条九代記」にも「蒙古襲来付けたり神風 賊船を破る」の一項を起こしている。
杜父魚文庫
10704 蒙古襲来の「北条九代記」 古澤襄

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