中国現代史、大転換機のクロニクル。09年の胡錦涛演説が中国の強硬路線への転換を示唆していた。
<<濱本良一『経済大国中国はなぜ強硬路線に転じたか』(ミネルヴァ書房)>>
トウ小平は「韜光養晦」と言った。この基本姿勢は死後も十年以上はつづいた。居丈高になることは滅多になかった。2007年頃までは。
いつ頃から中国は野心を韜晦することをやめて居丈高になり、日本をはじめとするアジア諸国に驕慢となって周囲に軍事的脅威をあたえても歯牙にもかけない強硬路線に転じたか。
日本にむけては歴史的因縁も国際法もまったく無視した言いがかりをつけ、尖閣を強盗にいきますよ、と宣戦布告に近い無法な態度をとる。反日デモのプラカードには「琉球奪回」「宣戦布告」「日本に核を見舞え」などと理性を欠落させた文言もならぶ。
そもそも、かの国に理性を要求するのは無理なことなのか?
この中国の強硬路線への転換は、2010-11年の出来事を時系列に精密に追求してゆくと全体の流れが分かり、中国外交の転換点が浮き上がってくる。
まず著者は次の指摘をする。
「1991年末にソ連が崩壊し、世界が次は中国の番だと考えていた時、最高実力者のトウ小平は、『韜光養晦、有所作為』との大方針を示した。
その意味は『才能を隠して機会を待ち、少しだけ行動にでる』というものだ。(原文改行)意図するところは、世界の脱社会主義の流れの中で、身を低くかがめて力を蓄え、嵐が過ぎ去るのを待て(中略)、建国以来の危機存亡に瀕した天安門事件を乗り切ったトウは、老体に鞭打って広東省深センなど南方視察を敢行した。後継指導者として据えた江沢民に『改革・開放の御旗を絶対に降ろすな』と諭す意味があった」
そして次の重要なポイントを指摘する。
「転換点は2009年7月の海外駐在外交使節会議での胡錦涛演説だった」なぜなら「韜光養晦 有所作為」の後節に「積極」が挿入され「積極有所作為」とする主張に変化したことだと捉え、以後、「自己主張を強めた中国の姿勢が随所で見られるようになった。『微少外交』から『強面外交』への大転換である」と指摘される
濱本氏はトウ小平が文革中の四年近くを下放されていた江西省南昌のトラクター修理工場の跡地へ取材に出向いた。
その現場。「草が茫々と生い茂った小道は、『小平小道』と呼ばれ」ており、実際に歩いてみると、「社会主義的熱狂の文革から隔絶された地で、祖国の未来を見据えて国策の大方針を揺るがす哲学を生み出した場所だと思うと深い感慨」があったと記憶をたどる。
そうだ、時系列で過去の推移をみれば、2008年8月の北京五輪から、すっかり自信を得た中国は上海万博で横柄な振る舞いをみせるようになった。
明らかに以後は軍事力を脅しの材料として、ベトナム、フィリピン、マレーシア、インドネシアと領海係争に傲然と軍事力を誇示し、ついに2010年には尖閣諸島への野心を公然化して日本に敵対を始めた。
これでは韜光養晦ではなく、積極披露である。
著者の濱本氏は読売新聞外報部で香港、北京特派員をつとめ、論説委員を最後に退職し、いまは秋田国際教養大学教授。読売時代にもカリフォルニアで講義をもった経験がある。
評者(宮崎)とは氏が香港特派員だった頃からの知り合いで、台湾総統選挙ではよく取材先でばったり、また北京時代は何回か北京でも会った。
いまは年に一、二回ほど当時の中国特派員があつまって同窓会的に酒宴を開くが、はじめからおわりまで全員が話題にするのはチャイナ、チャイナ、チャイナ・・・。本書には他にも幾つかの貴重な情報がある。
http://honto.jp/netstore/pd-book_25182589_091_821.html
杜父魚文庫
10813 書評「経済大国中国はなぜ強硬路線に転じたか」 宮崎正弘

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