石原チンタが都知事を辞職して立ち上がった。蔭ながら応援してやろうじゃないか。思うに、石原くらい我々がともに過ごした中学・高校当時と変わってしまった仲間も珍しい。
同じ逗子の小学校から来た連中も、今の石原は想像が付かないと言う。そこで、私の思い出にある線の細い青白き勉強家の石原の思い出を。
昭和31年の秋に、関東大学サッカーのリーグ戦の試合が成蹊大学のグラウンドで行われた時だった。一橋大学の一員に「太陽の季節」ですでに有名になっていた石原がいたので、すでに某大学のコーチの一員だった私が「石原、おめー偉いんだってなー」と声をかけた。
彼は例の目パチをやって「なーに、大したことはねーよ」と、照れ臭そうにはにかんでいた。そこには中学から高校にかけてのあの温和しい石原の面影がやや薄れていたいたが、青白き秀才風は未だ維持されたいた。
昭和41年(1966)の春だった。我が社に採用された新卒の社員の一人が私に挨拶に来て「石原さんが宜しくと仰っていました」と言う。石原と言われても業界では思い当たる人物がいないので、「石原って誰?」と聞き返してしまった。
すると「湘南のサッカーの石原さんです。自分は今石原さんが持っておられるOBのティームでお世話になっていて、その会社に行けば彼がいるから忘れずに挨拶しろよ」と言われましたと言う。
これには些か驚くと同時に、良く石原が私の勤務先まで承知していて、そこまでの気遣いをしてくれたものだと感心し、心中密かに感謝した。因みに、この新入社員は私の高校の10期下で、同じサッカー部の出身者だった。
今のあの放言的に乱暴な口調で発言する石原には、こういう気配りをする神経があるという一面を示しているエピソードであると思って、敢えて紹介する次第だ。彼奴はそういう良い奴なのである。
次はこの前後の頃だったと記憶する、サッカーがらみの話である。慶応高校・大学とソッカー部員だった実弟が慶応高校OBのティームと、いわば慎太郎軍団と親善試合をすることになったが人数が足らないので助っ人に来てくれと言うので、本当は相手方の慶応高校ティームに加わった。
試合の結果は全く記憶にないが、印象的だったのは軍団では、誰かがキープした際に石原がフリーでいると、全員が一斉に「石原さんに回せ」と声をかけたことだった。それがチャンスの展開になったか否かには触れないのが、彼に対する友情の表れになるだろうとだけ申し上げておく。彼がサッカーの名手だったと訊かれれば、答えは留保する。
1991年、未だ代議士だった石原が2年置きに開催される同期会に参加するとの情報があった。彼は自分で運転して紺のブレザーに勿論(?)議員バッジなど付けずに鮮やかなブルーのシャツにネクタイ姿で参加した。彼はこれを最後に同期会には二度と現れなかった。
残念だったのは、何故か誰も石原に近づこうとはせず、ポツンと立っているだけだった。そこで、これはチャンスと思って話しかけ、十分に彼の国政談義を聴く機会にした。しかし、何を訊いたかの記憶はほとんど無いが、「ゴルバチョフはどうだ」と尋ねたのに対して、「あんな奴は駄目だ。直に潰れるさ」と答えたのだけは覚えている。
彼は旧制中学3年までは蹴球部に入っていた。そして屡々サッカーの話をする。ある時嘗ては「全国制覇し損ないの会」と名乗っていた昭和24~26年卒のOB会の席で、当時のキャプテンでメルボルン・オリンピック代表選手のKさんが「何かというとマスコミはサッカー選手・石原さんについて語ってくれと言ってくるが、全く記憶がないので困る」と述懐された。
そこで、私が多くの蹴球部員としての彼に関する上記以外の思い出を披露した。Kさんは「解った。今度は石原についての問い合わせがあれば、君に訊くように言うから宜しく頼む」と言われた。だが、遺憾ながらそれ以降、マスコミからそういう問い合わせはないそうだ
杜父魚文庫
10838 石原は良い奴なんです 前田正晶

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