11094 死と向き合う日記の凄さ  古澤襄

母が遺した日記を読んでいる。駄文を毎日、書き綴っている私には、母が毎日、死と向き合っている姿が痛ましいというよりは、小説家らしい冷徹な姿勢に打たれ、その生き様から教えられるものがある。

<ひろげた朝刊に畔柳ふみという女流作家の死が報ぜられていた。同年代ということで、心に突き当たるものがある。高見さん(襄注記 高見順)が今度は長くないらしい。日本の文学界のために、もう少し生きていてほしい。このように身近かな人が死ぬなどということは、たまらなく悲しい。(1965・1・14)>
前年の暮、鎌倉の高見さん宅に母は見舞いに行っている。
<用事があったので、急に一人で鎌倉に行く。千疋屋でメロンを包ませ直行する。いつも高見さんを訪ねる日には、雨の日が多いのだが、きょうは空が青く澄んで高い。
高見さんは大手術のあとだから、当然かもしれないが、頭は白髪が増え、あんなに生気と矜持にみちみちて、憎いほど照り輝いて顔は、無精ひげがばらばら生えて、頬からあごにかけての筋肉がゆるんでいた。
きょうほど人生の無常を強く感じさせられたことはない。一日も早くもと通りの身体になってもらいたいと願う。何といっても高見順は、現代の日本の文壇で数少ない真の”文士”の一人だから・・・。(1964・12・13)>
<3月31日は武田麟太郎の命日で、例年のように千代さん(襄注記 麟太郎の愛人)のところに出かけたが、折悪しく皆旅行や仕事の都合で、集まったのは那珂孝平さんと私だけ。
武田氏が亡くなってもう19年になる。毎年、どんなに少なくても五、六人は集まったのに、ことしは、さみしい。こうしていつか忘れ去られていってしまうのかもしれない。
どのように感動深かったことも、年月がそれを薄め、そしてそれらの人たちが死んでしまえば、何もなかったことになってしまうのだろうか。人の世のことは、何とはかないものだろう。
自分もだんだん残された人生が少なくなってきたのに、さて振り返れば、いたずらに悔いばかり残る。常に前進を希望しながら、勇気がなかったり、勉強不足だったり、知識がなかったり。
つまずき、転び傷だらけになって、ただ負けまいと、がむしゃらに歩いてきた五〇年の何と貧しく、わびしいことか。
四、五年前までは、このまま死にたくないという気持ちで、死を怖れたものだったが、今は案外、抵抗せずに受け入れられる気がする。これはくたびれたからだろうか、もう何をしても遅いというあきらめだろうか。(1965・4・2)>
<いよいよものを書いていこうという決心がついた。あちら側には死の暗い、だが平穏な淵が待っている。
あちら側に待っている人たちに、せめてうなずいて貰うような土産ばなしの一つ、二つ持って行きたい気がする。自分という女は、最期まで見栄っぱりなのだろうか。(1965・5・29)>
<同人雑誌「星霜」一三号に「碧き湖は彼方」を初掲載。(襄注記 1977年10月の一八号まで六回続きの連載。一九八二年「古澤元・真喜遺稿集」に収録)(1974・7・15)>
IMG_0007.JPG
古澤元・真喜の墓は、川崎市の霊園に建てた。こんど菩提寺の玉泉寺に建立された古澤家累代の精霊なる墓に、来年五月の雪解けを待って二人の骨を納める。戒名碑の終わりに母の戒名・郁潤院真室妙喜大姉が刻まれた。
杜父魚文庫

コメント

  1. keisuke oohashi より:

    古沢さんのお母さんに、写真でお会いできて、在りし日がうかんできました。
    11月24日愛日小クラス会は6人の出席でしたが、古沢君はどうしてるかな と 話が出たとこでしたし、あのころの母の会の話も出たので、よけいに、お母さんの顔がなつかしく迫ってきました。有難うございます。

タイトルとURLをコピーしました