11169 マタギがいた時代   平井修一

秋田県の公式サイト「美の国あきたネット」やウィキによると、「マタギ」は、東北地方・北海道で伝統方法を用いて狩猟を行う狩猟者集団。特に青森県と秋田県のマタギが有名である。
その歴史は平安時代にまで遡るが、近代的な装備の狩猟者(ハンター)とは異なることに注意する必要がある。森林の減少やカモシカの禁猟化により、本来的なマタギ猟を行う者は減少している。
マタギは夏季は農業などを営み、冬になると集団をつくって白神山地のような奥深い森林で数日間にわたって狩猟を行う。狩猟の対象は主にクマとカモシカだが、カモシカの狩猟が禁じられたため、現在では春先に冬眠から覚めたクマを狩猟するマタギが多い。
夏、冬場の狩りの季節の前に、あらかじめ森林の中にマタギ小屋と呼ばれる簡易な小屋を立て、ここに米などを運び込んでおく。狩猟が始まると、ここで寝泊りして狩りを行う。
この小屋は非常に簡易なものなので、長持ちはしない。壊れると、翌年はまた新しい小屋がつくられる。
1つのマタギ集団の人数は通常8~10名程度だが、狩猟の対象によっては数十人編成となることもある。マタギの頭をシカリと呼ぶ。集団の各人はそれぞれ仕事を分担する。
通常は、クマを谷から尾根に追いたて、先回りしている鉄砲打ち(ブッパ)が仕留める狩猟(巻き狩り)を行う。現代では鉄砲が使用されるが、槍や毒矢を用いた時代もあった。
マタギの使用する武器は時代と共に進歩し、明治時代には村田銃、その後はスコープ付きのライフル等どんどん高性能な武器を利用している。しかし、高性能な武器の存在が、集団で狩りを行う必然性をなくし、マタギ文化が衰退した一因ともなっている。
秋田県内には数多くのマタギ集落が存在したため、現在も色濃くマタギ文化が残っている。
中でもその中心が秋田県の中でも特に山深く開発が進まなかった北秋田市阿仁に残る「阿仁マタギ」である。戦前まで、数百人のマタギがひしめいていた旧大阿仁村。
山形、福島、新潟、長野の山まで遠征していた。阿仁町は、1年の5ケ月を深い雪に閉ざされ、外界と隔絶された山また山の奥地でマタギ猟が受け継がれてきた。
阿仁町打当のシカリであった鈴木辰五郎氏はマタギで生計を立てた最後の人という。阿仁町の代表的なマタギ集落は、根子、打当、比立内である。
山深い奥阿仁地域の中でも、最も奥地にある打当集落。打当マタギは黒様森周辺を縄張りとしていた。狩猟を生業とする伝統的なマタギは姿を消してしまったが、山の恵みを受けて暮らす人々のしきたりや信仰は失われることなく、今に受け継がれている。
マタギにとって最大の獲物はクマで、ツキノワグマは普通70~80kg。まれに200kgを超す大物もいる。鋭い爪の前足は一撃で牛や馬を倒す。本州唯一の猛獣である。毛皮や胆は昔から貴重品扱いされ、商品価値も高い。そのため、マタギの猟法、技術はクマ狩りに集約される。
狩猟法による猟期中(11月15日から翌年2月15日)は、大半が冬眠で穴ごもりしてしまうが、穴から出てくる4月中旬~5月中旬は「春クマ狩り」といって最盛期だ。
里の雪が解ける頃、山々の深い雪も減って足跡が容易に見つかる。眠りから覚めたばかりのクマは、動きが鈍く、エサも少ないことから、行動範囲も狭い。
春クマ狩りは、5人以上から、多い時には30~40人が参加する。クマを包囲して沢から追い出すのが巻き狩りだ。
山に生きるマタギは、農と狩りが生活の糧であったが、もはや狩りは生業として成り立たなくなった。そうした中で失われていった習慣、しきたりも多い。マタギ言葉という独特の言葉も、今ではその言葉を伝えている者は、古老のみとなった。(頂門の一針)
杜父魚文庫

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