朴槿恵は父と母を凶弾で失った”悲劇の女性”として語られることが多いが、むしろ政界に出てから不屈の精神で自己主張を貫いてきた指導者の資質があるとみた方がいい。
韓国の中央日報は、「韓国初女性大統領・朴槿恵が歩んできた道」と題して、父・朴正煕(パク・ジョンヒ)元大統領の9日葬が終わった後、妹の槿玲(クンリョン)、弟の志晩(ジマン)と寂しそうに青瓦台を離れた朴槿恵が、歓呼の声に包まれて青瓦台に戻る情景を報じている。
<朴槿恵(パク・クネ)が34年ぶりに青瓦台(チョンワデ、大統領府)に戻る。朴槿恵は1979年11月21日、父・朴正煕(パク・ジョンヒ)元大統領の9日葬が終わった後、妹の槿玲(クンリョン)、弟の志晩(ジマン)と寂しそうに青瓦台を離れた。
朴槿恵が2013年2月25日、国民の歓呼の中、第18代大統領として青瓦台に入城する。かつて教授を夢見た大統領の娘が韓国初の女性大統領になるまで、朴槿恵が歩んできた人生は、決して平坦な道ではなかった。両親を凶弾で亡くし、自分の命まで狙われるテロもあった。野党代表を務めたが、大統領党内選挙で敗北した後、非主流も経験した。朴槿恵の運命を分けた10場面を選んだ。
<1>1974年に母が死去
朴槿恵は74年、西江大学電子工学科を卒業した後、仏グルノーブル大学の語学課程に入った。同年8月、朴槿恵は友人と旅行中、大使館から急いで帰国してほしいという連絡を受け、下宿に戻った。大使館の職員は母に事故があったと伝えただけで、はっきりと説明しなかった。不吉な予感を抱きながらドゴール空港に行った時、売店の新聞の見出しを見て母の死を知った。「Madam Park, Assassinated」(陸英修女史、暗殺される)。
当時の状況について朴槿恵は「鋭い刃が心臓の深々と刺さったような痛みを感じた」と振り返った。帰国の飛行機でずっと泣いていたという。その時から朴槿恵には新しい役割が与えられた。22歳のファーストレディーだった。朴槿恵は維新政権で5年間、ファーストレディーとして各種行事を主管し、国政に関する識見を高めた。朴正煕大統領との朝食は、朝刊の新聞を置いて時事討論を繰り広げた。朴大統領は長女に指導者の資質があると考えたという。
<2>父も銃弾で倒れる
79年10月26日、朴槿恵は翌日の日程のため普段より早く就寝した。翌日午前1時30分ごろ、電話の音で目が覚めた。しばらくして金桂元(キム・ゲウォン)大統領秘書室長が官邸を訪ね、「大統領が亡くなりました」と伝えた。
この時、朴槿恵は「前方に異常はありませんか」と尋ねたという話は、彼女の安保観と関連し、外国メディアにまで引用された有名なエピソードだ。またも降り掛かってきた親の悲劇に、朴槿恵は深く衝撃を受けた。朴槿恵は血に染まった父のネクタイとワイシャツを洗いながら嗚咽した。
朴槿恵は同年11月、青瓦台を出て、親が住んでいたソウル新堂洞の自宅に戻った。朴槿恵は父が使っていた古い机に座り、全国各地と外交使節から送られてきた追悼の手紙を読み、一つひとつ返信しながら毎日を過ごした。妹の朴槿玲は「外出から戻ると、姉は一人でTV文学館などの番組を見ながら涙を流していた」と振り返った。
炎凉世態(薄情な世の中)は朴槿恵の胸に「背信のトラウマ」を深く刻んだ。父の生前は丁重に接していた人たちが、世の中が変わると見知らぬ人のように距離を置き始めた。朴槿恵は当時、日記帳にこういう文章を残した。
「今やさしくて親切な人が、後ほど会っても利にさとい人ではないと誰が断言できるだろうか。虚しい人間関係だ」(81年3月2日)
<3>大邱達城で政界入門
朴槿恵を呼び戻したのは1997年の通貨危機だった。 朴槿恵は「通貨危機後の一連の事態を見ながら、『国がこのように揺れているのに自分だけ気楽に生きれば、死後に堂々と親に会えるだろうか』という質問がずっと頭の中から離れなかった」と話した。 97年12月10日、第15代大統領選挙を8日後に控え、朴槿恵はハンナラ党の李会昌(イ・フェチャン)候補支持を宣言し、政界に足を踏み入れた。
ハンナラ党が大統領選挙で敗れると、1998年4・2再・補欠選挙は党の命運がかかる重要な選挙となった。 朴槿恵は父が若い頃に教鞭を執った聞慶-醴泉出馬を決心した。 しかし党が状況が厳しい大邱達城での出馬を要請し、朴槿恵はこれを受諾した。
国民会議が達城に送った厳三鐸(オム・サムタク)候補は手ごわい相手だった。 政権初期だったため、資金と組織を前面に出した与党候補のプレミアムも大きかった。 当時、達城選対委員長だった姜在渉(カン・ジェソプ)が「選挙資金はどれほどあるか」と尋ねると、朴槿恵はただ「ありません」と答え、姜在渉を当惑させた。
その代わり朴槿恵は一日に10万歩以上も歩きながら、有権者との対面接触を増やすことに全力投球した。 終盤まで世論調査では劣勢だったが、朴槿恵は世論調査に表れない“民心”の力を信じた。 結局、蓋を開けてみると朴槿恵の完勝だった。 政治工学を遠ざけて民心に直接訴える朴槿恵の政治スタイルはこの時から始まった。
<4>2002年に金正日と会談
朴槿恵は2002年5月11日から3泊4日間、平壌(ピョンヤン)を訪問した。 ヨーロッパ-コリア財団理事の資格で北朝鮮民族和解協議会の招請を受けたのだ。 当時、朴槿恵は李会昌との葛藤の末、ハンナラ党を脱党し、韓国未来連合創党を準備していた。 金正日は自分の専用機を中国・北京に送って朴槿恵を迎えるほど礼遇を見せた。 5月13日晩、金正日が予告なく朴槿恵が宿泊していた百花園迎賓館を訪問した。 朴正煕の長女と金日成(キム・イルソン)の長男の間で行われた歴史的な会談だった。
2人は速記士1人だけを同席させた状態で1時間ほど会談した。 朴槿恵は「金正日国防委員長は率直でストレートな人だった。 話し方と態度が印象的だった」と語った。 金正日は68年の北朝鮮軍特殊部隊の1・21青瓦台襲撃事件について、「当時、極端主義者が誤って事件を起こした。 申し訳なく思う。 その事件にかかわった人はみんな応分の罰を受けた」と謝罪した。 朴槿恵が「答礼訪問をするという約束を守ってはどうか」と話すと、金正日は適切な機会に行くと答え、朴正煕元大統領の墓地を参拝するという言葉も述べたという。
<5>テント党舎から“選挙女王”に
2004年3月24日、ハンナラ党代表として初めて出勤した朴槿恵は、汝矣島(ヨイド)国会前の10階建ての党舎に入らなかった。 その代わりに党員と一緒に党舎入口の扁額を外した後、1キロほど離れた汝矣島中小企業展示場の敷地のテント党舎に入った。 当時ハンナラ党は盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領に対する弾劾の逆風で沈没直前だった。 総選挙で50席確保も難しいという世論調査も出ていた。
救援で登場した朴槿恵は党の痛烈な反省を象徴するイベントとして、少壮派の建議を受け入れてテント党舎に党を移した。 党役員は黄砂を防ぐためにマスクをしたまま勤務し、あちこちでもれる雨水をバケツを受けた。 反省の時間は84日間続いた。 選挙運動期間、朴槿恵は「腐敗・既得権政党から脱する。 最後にもう一度機会を与えてほしい」と訴えながら全国を回った。 あまりにも多くの握手をしたために手が腫れ、選挙日の5日前からは右手に包帯を巻いていた。
総選挙でハンナラ党は121席と予想以上に善戦し、起死回生した。 朴槿恵が保守陣営の新しいアイコンとして定着する瞬間だった。 朴槿恵は同年6月、塩洞に党舎を移しても「テント党舎精神」を強調し、各種改革を陣頭指揮した。(中央日報)>
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