10月の経営塾フォーラムに出席したところ、何人かから口を揃えたように、「オバマとロムニーのどちらが、日本にとっていいですか?」と、たずねられた。
知人に会うたびに同じことをきかれるので、辟易していたところだった。
日本が情けないことに、国家の安全をまるでアメリカに飼われた仔犬のように、依存しているからだろう。
尖閣諸島が、危ない。歴代の政府が無為無策に終始してきたが、日本国民が事を荒立てることを恐れて、国防を疎かにしてきたからだ。そのために、中国に侮られた。
先の敗戦から独立を回復して60年もたつのに、いまだに現実を無視して、軍事を忌み嫌う風潮が国民精神を支配している。自衛隊があるといっても、尖閣諸島1つ自分の力で守る力がない。かつての日本が丸裸ならばよいという非武装中立論に、毛が生えたほどの軍事力しかない。
平和さえ唱えていれば、安全が守られるという平和主義は精神主義であるが、現実に目を背けている。昭和20年の敗戦は日本民族にとって、幕末の黒船襲来による開国と同じ、驚天動地のことだった。
昭和20年まで軍国主義を礼讃していたのに、武にまつわる一切を弊履のように捨てて、平和主義を崇めるようになった。今日の日本国民の大多数が、軍は危険なものだとみなしている。明治初年に廃仏毀釈を行って、それまで後生大事に拝んでいた仏像を壊して、燃やした繰り返しだった。
先の大戦で戦局が絶望的になると、昭和19年から特攻攻撃が行われた。ほどなくすると、特攻作戦が戦略となって、軍が臆面もなく「一億総特攻」を呼号するようになった。世界史のなかで、特攻作戦を国家戦略としたのは、日本だけである。
特攻が戦術ではなく、戦略になったのは、非合理もはなはだしかったが、当時の朝日新聞の紙面から『主婦之友』の表紙まで、「一億特攻」の文字が踊っていた。
私は武道にかかわってきたが、ことさらに心を強調する。日本の武術は、江戸時代を通じて250年以上も泰平の世が続いて、戦うことがなかったために、精神的なものに偏るようになった。
武術が精神的なものになったのは、日本だけである。世界から見れば、これは奇異な現象だ。武道では計算を離れて、気を集中して、無心であることが尊ばれる。
先日、刀匠をたずねて、週末を過した。日本刀の形が平安時代後期から1000年以上も、まったく変わっていないことに、あらためて驚いた。戦乱が続いた中国では、戦場の用途によってさまざまな刀が、つくられてきた。
日本では武器よりも、精神が重んじられた。剣豪小説を読むと、敵と命のやりとりを行うなかで、無心の境地とか、無欲の勝利という言葉がしばしばでてくる。精神が現実に打ち克つのだ。「きりむすぶ太刀の下こそ地獄なれ。踏み込んでみよ極楽」といわれるが、特攻精神と結びつくものだろう。
敗戦後の今日、日本国民の心を支配している平和主義は、前大戦における「一億総特攻」とまったく同じものだ。
私の仕事場は国会の近くにある。よく左や、右の「××ハンターイ」という呼び声が聞えてくる。竹竿売りや、金魚売りの声音と変わらない。民族の原型は変わらないのだ。
杜父魚文庫
11285 精神主義が日本の防衛を危うくする 加瀬英明

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