11295 田中角栄と園田直  渡部亮次郎

二人は同じ自民党に在りながら「角福戦争」では両端の別れ目を命を賭けて闘った。直氏は福田派の参謀として。しかし角栄氏が引退同然になってからの二人は元の友人に戻った。それを知らずに福田は大平の足を引っ張った。晩年の福田不幸の原因はそこにある。
二人に対する出会いは園田氏のほうが先。船田中衆院議長と田中伊三次副議長が日韓条約批准案の採決強行の責任を取って辞職した後、佐藤栄作自民党総裁(首相)が指名した後任の候補者は山口喜久一郎に園田直(そのだ すなお)だった・両人とも旧河野派所属。
既に河野一郎氏は、この年の7月8日に急逝していたので、党内では問題にならなかった。むしろ入閣経験の無い園田氏の副議長起用は、嘗ての池田勇人内閣当時、国会対策委員長としての園田氏の手腕を「記憶」していた「人事の佐藤」を称える声が大きかった。
当時、私は政治部配属2年目のNHK記者。1年目を首相官邸記者として過ごした後。衆議院記者クラブに配属されていた。ここは衆議院正副議長を担当しながら衆院本会議や各委員会全般の動きを掌握する部署。3ヶ月ぐらいで殆どを覚えた。
首相官邸当時はキャップの指示で河野氏担当記者の助手みたいなことをしていて、河野氏(当時は無任所相)が担当していた日韓基本条約締結交渉の経緯を河野氏から聞き、霞クラブ(外務省記者クラブ)のキャップ島 桂次記者(のちのNHK会長)に伝えることにしていた。
船田・田中コンビの後任となった山口・園田コンビは何をするか。正月の伊勢参りに同行してみたが、これといったものはかぎつけることができなかった。
ところがある日、議長室にはいった社会党の石橋国会対策委員長が出てきたのが副議長室だった。通じていなかった正副議長室が通じている。これを知ったことが建国記念「の」日創設をめぐる自社両党の妥協をスクープすることになった。
園田氏はそうした手腕を佐藤首相に買われ、副議長を山口、綾部健太郎、石井光次郎と3代の議長を補佐したのが認められ晴れて厚生大臣として初入閣、水俣病とイタイイタイ病を初の「公害病」として認定。
マスコミからは不人気の佐藤内閣にあってただ1人の「好一点」などとはやされたが選挙区でもあった水俣では「恥を暴露した」と不評。総選挙では得票が減った。だからあれを「売名」だったと評価する一部の人はまちがっている。
園田氏は厚生大臣を辞めたところで佐藤首相の希望で国会対策委員長に就任。幹事長田中角栄の許で国会運営の責任を担うことになった。田中は既に佐藤のあと、首相の地位を狙って着々と自派勢力の拡大を進行させていた。これをマスコミは対抗馬福田赳夫外相による角福「戦争」と命名した。
このとき私は福田派担当。園田氏とは昵懇の仲になっていた。彼には田中支持に回るよう助言したが、親分の重政誠之が「昭和電工事件仲間で福田支持だから」と言って福田に走った。結果はご承知のとおり。
園田氏は角福戦争の後約10年を「無冠」で過ごした。その間、武道館に通ったり趣味のラジコンにこって無聊を慰めた。ラジコンで模型飛行機を飛ばすのに良く誘われて茨城県の牛久沼の小屋に泊った。
一方の角栄氏は戦争には勝ったものの、「金脈」でミソをつけた。問題の総合雑誌「文芸春秋」には渡部亮次郎が「赤坂太郎」の名で反田中の政治評論を書いていることをつきとめ、「背後に園田あり」と園田に濡れ衣を着せるという失策を演じた。
それは渡部の大阪左遷でカタをつけたが飛んでもない「ロッキード」事件による5億円の収賄事件が発覚して逮捕される事態に発展した。逮捕させたのは首相の三木武夫だとなり、とんでもない場面で角福共同による「三木おろし」となった。
三木を降ろさなければ田中の協力を得ての福田政権樹立の悲願達成は不可能というわけで園田氏は福田の身代わりとなって三木降しに奔走。私は大阪でやきもきしながら週に一回は上京して園田氏を応援した。
私を大阪に左遷させた田中を私は恨んだが、田中の立場にたてば当然だったと考えるようになっていた。今では人格的には福田より角栄のほうが立派だったと思っている。
園田氏は角栄氏を直接、間接的に説得。ポスト三木で2年間は福田氏、その後は大平正芳氏という密約を結ぶことに成功。品川のパシフィック・ホテルで文書を交わした。
かくて福田氏は70歳にして首相に就任。園田氏は官房長官としてスポット・ライトを10年ぶりに浴びたが、福田氏は「密約」を反古にすべく着々と手を打ち始めた。その第一弾が園田氏の外務大臣への横すべりだった。
世間やマスコミはこれを念願の日中平和友好条約の締結と結びつけて考えたが、そうではなかった。とにかく密約支持の園田を官邸に置いていたのでは「反古」工作がままならない。
加えて親分岸 信介氏からの女婿 安倍晋太郎を官房長官にという熾烈な要求にも応えることが出来る。外交素人の園田を外務大臣で処遇すれば園田は横滑りを納得するだろう。
しかし園田はその昔、重光葵(しげみつ まもる)大臣の許で外務政務次官を勤め外務省新館を建設した実績さえあるし、何よりも密約反古を狙う福田の腹を知って立腹していた。NHK記者から秘書官に転じてきた私にはすべて語った。
園田氏は日中平和友好条約交渉を積極的に進める一方、田中角栄との連絡を蜜にするようになっていった。目白の田中邸に時々午前5時ごろ訪問した。いつも私を帯同した。勿論、いつも車内で待機していた。
福田の腹中は常に話題だった。情報は大平に常に伝えられたはずだ。既に福田に勝ち味はなかった。こういう戦いにかけては実際に戦争をした党人派に「経験」がある。
福田政権の末期、園田外相は森善朗官房副長官らの作戦参加要請をけってアフリカ訪問を敢行したりした。7月14日、パリで森氏を激しく叱責する場面もあった。
結局福田氏は密約を反古にして総裁選に立候補。しかしマスコミの予想を大きく覆して大平に敗れ「天の声にも変な声がある」との迷言を遺して官邸を去った。
「会長は後任の社長を暖かく見守っていれば返り咲きと言う場面が無いわけじゃない」と園田氏は言い続けた。しかし福田氏のいじめが効いて大平氏は総選挙のさなかに急死した。
虎ノ門病院で遺体と対面した園田氏は「これから何処へ行こうか」と私に言ったあと目白の私邸に田中氏を訪ね「後継首相は鈴木善幸」で一致。外国マスコミは「ゼンコウ Who」と打電した。(頂門の一針)
杜父魚文庫

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