11331 福田赳夫さんの命日   渡部亮次郎

福田赳夫さんが「角福戦争」で田中角栄氏にあえなく敗れた時、福田派担当の記者(NHK)だった。福田赳夫さんは1995(平成7)年7月5日に90歳で亡くなった。死因の慢性肺気腫は、夫人にも隠れて吸った永年の煙草のせい。
1976年12月、内閣総理大臣に就任したとき、私は田中角栄総理による大阪左遷から東京国際局へ帰還直後。その1年後の改造で、官房長官園田直(そのだ すなお)さんから、朝、国立(くにたち)の自宅へ掛かってきた電話で官房長官秘書官就任を承諾。
およそ1時間かけて電車で永田町の総理官邸に到着してみたら、あろう事か、全閣僚が辞任した中で園田さんだけが居残って、しかも外務大臣に横滑りしていた。私はいまさら引き返しもならず、外務省で秘書官なるものを始めた。
大臣秘書官は、大臣が任命するものではない、とは知らなかった。総理大臣が任命して、俸給額だけが外務大臣によって決められる。したがって、形式的には、私は福田さんから招かれて外務大臣秘書官になったことになる。
さりとて辞令は誰かが総理官邸から貰ってきてくれたし、とくに就任挨拶にも出向かなかった。1977(昭和52)年11月29日のことだった。
翌年7月に入り、あさってからボン〔ドイツ〕でのサミットに出発すると言う12日の朝6時半、園田さんは目白の田中角栄邸を訪れた。
夜は明けていったが記者はまだ誰一人居なかった。門前の警察官が告げ口しない限り、福田さんの耳には入ってはならない行動である。サシの会談は2時間に及んだ。
名目は大詰めに来ていた日中平和友好条約の締結をどうするかについて、「先輩総理」に仁義を切るという園田さんの申し入れによるもので、連絡役を務めたのが外務政務次官愛野興一郎氏。田中派だったのが幸いした。
2人がサシで会談したのは、角福戦争(1972年)以来約6年ぶりのこと。いわゆる「大福密約」を取り仕切った2人ではあるが、ゆっくり話し合う事はそれまで無かった。なんだかこの時点で福田総理再選の目が消えたように思う。
ついでだから、この会談で角さんが園田さんに述べた事を私は園田さんから聞いてメモしてあった。紹介しておこう。
<①首相退陣(1974年12月〕を決意した直接のきっかけは、健康状態の悪化にあった。モノが2重に見えるほどになっていた。
②退陣に際し後継に椎名悦三郎を「指名」しようと決意していた。
③ところが、佐藤栄作元総理が「指名はするな」と言ってきた。佐藤はその頃は田中に買収されていたのではなく昭和電工(三木武夫のスポンサー)に買収されていた。そこで椎名には後継者選びを委ねることにした。
④後継者について、感情的に福田には渡したく無かった。彼はオレの政権が苦しくなった時に、蔵相を辞めて、首吊りの足を引っ張った。大平のことが気になった(椎名に委ねれば、大平が指名されることは無くなる)。
⑤福田のあとは大平だ。中曽根はモノになるまい。大平のあとは1万石大名の背比べで混沌とするだろう。>
福田総理、園田外相らは7月13日午前9時、羽田空港から日航特別機で出発。パリに2泊したあと、ボンのパレ・シャンブルグでのサミットに臨んだが、園田外相は不機嫌だった。
この頃から福田さんは「世界が福田を招いている」と言って総裁再選出馬をちらつかせるようになった。これを感じての園田さんの不機嫌は、密約破りとなり、立会人としては大平さんに対して誠に苦しい立場になるからである。
園田さんから密約の経緯を知らされている私は事情は良く分かるが、福田さんから密約のことは一切聞かされていない福田側近は、福田再選態勢作りに積極的でない園田氏を次第に非難し始める。総理秘書官になっていた長男の康夫さんから何度も赤坂の料亭に呼び出されて「説得」されたが、私としては如何ともし難かった。(頂門の一針)
杜父魚文庫

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