11387 「こんにちは! 鶴蒔靖夫です」放送7300回を祝して  加瀬英明

早いもので、『こんにちは! 鶴蒔靖夫です』が、7300回を迎えた。
私も昭和63年に初めて出演してから、鶴蒔さんの相手をつとめるのが、572回を迎えた。
だが、ホストの鶴蒔さんも、私も年(よわい)を加えても、青年らしい生気と活気をいささかも失っていない。かえって、年を重ねるごとに身と心が、若やかになってゆく。
漢和辞典で「年」の解字をひくと、この字のもとは、「稲などの穀物の穂が実って、たれ下がっているさま」を意味する。見事な稔(みのり)だ。
「わが欲りし雨は降りきぬかくしあらば 言挙(ことあげ)せずとも年は栄えむ」〈万葉集〉
知的な対話は、若さを保つ力となるのだろう。穀物を育てる、慈雨である。だから、鶴蒔さんも、私もいつまでも若いのだ。
もっとも、話すよりも聞くほうが、知を育(はぐく)んでくれる。私たちは知っていることしか、話せない。人は聞くほど知が研がれ、磨かれる。不老の妙薬だ。
かって東西の皇帝たちは、廷臣を選んで万里の砂漠や、海原を越えて、不老の薬を求めさせた。浦島太郎は亀の背に乗って、海底の龍宮御殿まで行って、不老の薬を手に入れた。だが、今日では、そのようなことをする必要はない。ラジオがある。

神が人を創った時に、どうして口を1つしか与えなかったのに、耳を2つつくったのだろうか。古代ユダヤの賢人が、この設問に「人は話す倍、聞かなければならないからだ」と、答えている。
ラジオのよい番組を聴こう。耳を欹(そばだ)て、耳を澄ます。徳、聴くのは「神の意を知る」「立てる」「よく通す」を、意味している。「聴」は「耳を立てて、声をよく耳の中まで通す」ことである。
静聴、傾聴、敬聴する人には、徳がある。聰知、聰叡、聰明、聰慧、聰敏は、みな耳偏がついている。「聰」は耳がよく聞こえる、さといという意味である。
酒のよしあしを鑑定することを、「聞酒(ききざけ)」という。もちろん、升(ます)や、酒瓶に耳を当てて、良否をきめるわけではない。香道では香をみわけるために、香を嗅がない。心を澄ませて、香を聞くのだ。
そこへゆくと、映像が休みなく、せわしく動くテレビは、知性を破壊して、知的能力を衰えさせる。
太古の昔から、人は知識や、智恵は耳から取り入れるのに対して、目は見るだけのものだということを、知っていた。漢和辞典の目部をめくってゆくと、眩(めまい)、睨(にらむ)、瞋(目をみはる)、瞠(にらむ)、眠(ねむる)、睡(ねる)、瞬(またたく)、眜(くらい)、眺(ながめる)をはじめとして、目偏がつく漢字のなかに、知的なものは1つとしてない。
テレビに「テレビの見すぎは、知的障害をひきおこす危険があります。あなたの周りの人、子供、青年、おとな、年寄の精神に悪影響を及ぼします。テレビを見る際には、周りの人の迷惑にならないように注意しましよう」というラベルを貼付することを、法律によって義務づけたい。
もし、ラジオとテレビが、古代からあったとしたら、人はそれぞれを表わす漢字をつくったことだろう。ラジオには耳偏、テレビには目偏をつけたにちがいない。
読者諸賢のなかに、いや、きっとそれだったら、どうして神は人間に目を二つ与えたのか、いぶかる方がいられよう。神が世界を創られた時には、文字が登場することを予期されたものの、人がテレビのようなまったく無駄なものをつくろうとは、予見されなかったからである。
人と動物を分けるのは、連想する力だ。人は瞼(まぶた)を閉じて想像し、夢を描く。目を瞑(つむ)って、ラジオから流れる声を聞こう。
杜父魚文庫

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