11394 「中核派」中堅幹部の30年  平井修一

「狂おしく悩ましく――『前進』編集局員の事件録」というブログをざっと読んだ。『前進』とは中核派の機関紙である。このブログは同名の著書を元にしたものだ。前口上にはこうある。
<1966年、大学入学のその日から、私は学生運動に飛び込んだ。以来95年まで、横浜の職場で働き、さらに『前進』編集局員として「2つの戦争」を戦った。青年時代から30代、40代。等身大の「中核派・私論」です>
著者はほぼ30年間を中核派として過ごした活動家である。中堅幹部と言ってよいだろう。小生は同じ中核派でも一兵卒であり、将棋の「歩」で、2年間で中核派からも新左翼からも離れた。中核派へのシンパシーはあったが、党の主張以外の言論を認めないという共産主義に幻滅したことが大きかった。
著者の名前は分からないが、彼は現場の第一線から“出世”して1978年に『前進』編集局員になったが、95年のある日、幹部から編集局員解任を告げられる。
<「邪魔だ、解任だ」ということか。「ほっとした」。ようやく「サティアン」から逃れられる。ようやくだ……。憤慨するか落胆する所か、とは思ったが、実際には嬉しかった。「これで中核派とはおさらばだ」>
上への批判が許されない世界に疲れ果てていたのだろう。しかし、何のための30年だったのだろうという総括をし、リセットしなければ生きてゆけるものではない。だから著書を刊行し、ブログも書いたのだろう。
<私は今、タクシー乗務員だ。この原稿のほとんどは仕事中に書いた。駅やホテル、オフィスビルでお客さんを待つ間に、せっせと書きつけた。休みの日に、赤入れする。
事実について、出来るだけ当時の思いを基に書く事に努めた。論じるのは他人に任せよう。「1次資料」として使えるものにしたい。そして、多くの人々が体験を出し合う中から、全体像が出て来ればいい。
私自身、この手記を書くことで、自分自身のリハビリとした。恥をかき軽蔑される過程が必要なのだと思う。その中にこそ生きた証がある。
私は私の歩んできた道を悔いてはいない。たとえ誤った道であったとしても、そこには他に得難い、熱い日々があった。やはり巨大な歴史ではあったのだ。
「中核派」は、今でも私の心の故郷だ。「故郷は遠きにありて思うもの」、いい詩だ>
著者は1947年生まれの団塊世代だから今は65歳だ。31歳で6年間の結婚生活を終えているから今は独居か。今日もタクシーを運転しながら来し方を振り返っているのだろうか。(頂門の一針)
杜父魚文庫

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