11397 角栄政権は繊維交渉の勝利   渡部亮次郎

佐藤栄作政権の次は福田赳夫が獲る。渡部にもたまには良い目を見させてやろうーーこれが当時のNHK政治部長の決断。私が「角福戦争」で福田番に指名された。1971(昭和46)年夏のことだった。共同通信の古澤襄さん、時事通信の屋山太郎さんは年齢は先輩だが福田番では仲間だった。
通商産業大臣という厭なポストに就けられながらも肝腎の日米繊維交渉で多大の成果を挙げた田中をアメリカのニクソン大統領が諸手を上げて歓迎。佐藤の福田への政権「禅譲」作戦は失敗、「戦争」で田中は圧勝したのだった。
福田番になって初めに仰天した。田中はカネなどあらゆる力を動員して票の獲得に余念がないのに福田は党内に対する多数派工作を全くしていないのだ。親分佐藤からの「禅譲」を信じているからだ。やれば佐藤に怒られるというのもあるだろうが、今からやっても角栄には追いつけないと言う面もある。
福田は元々大蔵(現財務省)官僚。幼少時から秀才の誉れ高く、一高、東大を経て難なく大蔵省入り。省内でも順調に出世、主計局長となり、次官目前だった。ところが好事魔多し。折からの昭和電工事件で収賄の容疑をかけられ逮捕、辞職に追い込まれた。
<昭和電工事件とは、戦後間もない1948年におきた贈収賄汚職事件である。昭電事件、昭電汚職、昭電疑獄とも呼ばれる。
復興資金として復興金融金庫からの融資を得るために、大手化学工業会社・昭和電工の日野原節三社長が行った政府高官や政府金融機関幹部に対する贈収賄事件。
1948年6月に発覚したが収賄側としてGHQの下で日本の民主化を進める民政局(GS)のチャールズ・ケーディス大佐ら高官の
名前が取り沙汰され、ケーディスは失脚。裏にGSのライバルで反共工作を行っていたGHQ参謀第2部(G2)のチャールズ・ウィロビー少将と右翼の三浦義一の暗躍があった。
大蔵官僚・福田赳夫(後の首相)や野党・民主自由党の重鎮・大野伴睦(後の自由民主党副総裁)の逮捕に始まり、やがて政府高官や閣僚の逮捕にまで及んだ。栗栖赳夫経済安定本部総務長官、西尾末広前副総理が検挙され芦田内閣の総辞職をもたらした。
戦前軍部に対抗し大政翼賛会にも参加せず、首相としては閣僚の上奏を停止するなど、はっきりしたリベラルであった芦田均を失脚させるための、帝人事件同様の検察ファッショであったと考えることもできる。
その後、前首相であった芦田自身も逮捕されたが、裁判では栗栖以外の政治家は無罪となった>。(ウィキペディア)
福田は郷里の群馬県に戻り、政界進出を決意。1952(昭和27)年の第25回衆議院議員総選挙で群馬3区から無所属で立候補し当選、岸信介に仕えた。
1958(昭和33)年には当選4回ながら自由民主党政調会長就任。
1959(昭和34)年1月から自民党幹事長を、6月からは農林大臣を務める。
1960(昭和35)年12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判。
岸派の分裂を受ける形で坊秀男、田中龍夫、一万田尚登、倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗した。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する。
池田から政調会長をクビにされ、福田及び同調者は池田内閣の続いている間、完全に干し上げられ長い冷飯時代を味わう。
佐藤栄作政権下で、やっと復活。大蔵大臣、党幹事長、外務大臣と厚遇され、佐藤の後継者として大いにアピールしたが、この時から“ポスト佐藤”をめぐる田中角栄との熾烈な闘争(角福戦争)が始まる。
日本列島改造論を掲げ、積極財政による高度経済成長路線の拡大を訴える田中に対して、福田は均衡財政志向の安定経済成長論を唱える。
また中華人民共和国との日中国交回復を急ぐ田中に対して台湾との関係を重視した慎重路線を打ち出す。
これらの「外交タカ派」のスタンスは岸派以来の伝統で、福田派の後継派閥である清和政策研究会の森喜朗や小泉純一郎、安倍晋三らに引き継がれている。
これに対して田中は、「佐藤が福田に“禅譲”するならいつかの時点でオレをレースから降りろと抑えにくる」と初めから佐藤排除作戦。
内閣改造で福田に帝王学を授けるように外務大臣にしたのに田中には宮澤喜一と大平正芳も解決できなかった日米繊維交渉と言う難問を押し付けるように通産大臣にした。
宮澤と大平は共に大蔵官僚。大蔵大臣時代の池田の秘書官だったが、東大出の宮澤は一ツ橋出の大平を軽蔑して不仲だったのは余談。
学歴と抽象論の無い田中は目前の「課題」の解決に快感を感じる男。繊維問題こそは沖縄返還の見返りとして焦眉の急だと判断。大臣としての古巣と認識している大蔵省の幹部たちを口説きおとして、なんと2000億円を手中にする。
田中はこのカネで国中の機織機のすべてを買収し、破壊してしまった。首相の佐藤も口を開けて承認。日米の永年の懸案は一気に解決をみた。
このやり口にはニクソンも感嘆。佐藤が首脳会談につれてきた福田、田中、水田蔵相の中から田中を最優先に待遇。佐藤はついに「田中を抑える場面」を作る事はできなかった。「禅譲」の消えた瞬間だった。
1972(昭和47)年7月、「われ日本の柱とならん」を掛け声に佐藤後継の本命として保利茂、松野頼三、園田直、藤尾正行ら他派の親福田議員を結集して総裁選に出馬する。
決選投票(田中282票、福田190票)で角栄に敗れるが、「やがては日本が福田赳夫を必要とする時が来る」と強気の発言を残した。こういうのを引かれものの小唄という。祭りの後の寂しさか。(頂門の一針)>
杜父魚文庫

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