11407 拉致解決よりも北との国交樹立を優先させた野中広務氏ら  古森義久

拉致問題の再訪の記事です。アメリカがいかに日本の拉致問題解決への努力を助けたか。その点に光をあてています。
<■【再び、拉致を追う】第4部 日米関係の中の拉致事件(2)米国編>
■共闘宣言、被害者家族の支え
米国の首都ワシントンの3月とはいえ凍るような夜だった。小さな日本食レストランで夕食を囲む男女たちは高齢者も多く、寡黙だった。拉致被害者の蓮池薫さんの両親の蓮池秀量、ハツイ夫妻、横田めぐみさんの両親の横田滋、早紀江夫妻ら「家族会」のはじめての訪米団だった。その最後の夜、一行は疲れをみせながらも「来てよかった」「心強い」という言葉をもらしていた。
ジョージ・W・ブッシュ大統領が登場して三十数日、2001年の2月下旬からの訪米だった。「救う会」の代表が加わって計11人が1週間ほどワシントンなどに滞在し、米側の政府や議会、そして民間機関の代表たちと会談した。米側は日本側被害者家族たちが驚くほど前向きに対応した。それは北朝鮮による日本人拉致事件解決への日米共闘の初の宣言だった。
国務省のトム・ハバード次官補代行は「北朝鮮との接触ではこんご日本人拉致解決を必ず提起していく」と明言した。日本側被害者の地村保志さんの父の保さんは「米国の当局者たちの話から北朝鮮への圧力がかけられるという気がしてきた。日本政府もぜひ同じような動きをとってほしい」と語った。
日本政府は当時、北朝鮮による拉致を公式には認めず、被害者家族には暗に沈黙を求めていた。日朝国交正常化交渉を進める外務省は北への食糧援助を唱え、「(拉致された)たった10人のことで正常化交渉が止まってよいのか」(当時の同省アジア大洋州局長の槙田邦彦氏)という主張が大手を振っていたのだ。
だが、米国の政府も議会も拉致を確認された事実と認める前提で日本への協力を誓い、日本人拉致を「いま進行中のテロ活動」と断じた。「救う会」の一員として初訪米した島田洋一氏(福井県立大教授、「救う会」副会長)も「この時の米国の協力と激励の表明が、その後の日本での活動の大きな支えになった」と認める。
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もっとも、米国も日本の拉致事件を一貫して重視してきたわけではない。初の訪米団と面談した当時の議会調査局朝鮮半島担当官のラリー・ニクシュ氏(現在、戦略国際問題研究所上級研究員)が語る。
「民主党のクリントン政権の前半は北朝鮮に対し核兵器開発の阻止に焦点をしぼり、日本人拉致に象徴されたテロ活動非難は後回しの姿勢だった。
韓国の金大中政権の太陽政策がその傾向をあおった。だがクリントン政権も北朝鮮を最後に妥協させるための巨額の経済援助では日本に頼らざるを得なくなり、日本人拉致の解決をリストに入れるようになった。
そこに登場した共和党のブッシュ政権は北朝鮮に強固な態度を取り、人道主義の観点から日本人拉致解決も米朝国交正常化の前提とするようになっていったのだ」
日本の初訪米団を元気づけた米国側には実利的な狙いもあった。
しかし、日米同盟堅持と人道主義尊重という2つの要素から日本人拉致解決への協力を続けてきたニクシュ氏は、当時のブッシュ政権の高官たちに「キューバ 政府の工作員が若い米国人男女をフロリダ州の海岸で拉致していったことを想像すべきだ」と説き、対日協力への同意を得ていったという。同氏は「政府が自国の国民の生命をどこまで守るかによって民主主義の度合いが決まる」と語った。
この点で想起されるべきは、自国民の拉致の解決よりも北朝鮮との国交樹立を優先させるべきだという趣旨を主張し続けた野中広務、河野洋平、加藤紘一各氏らの言動である。
日本の外交や政治でのこうした一部の倒錯を、国際的な倫理や普遍的な価値観からみてのゆがみとして印象づけたのも、当時のブッシュ政権の対応だったといえよう。
日本人拉致事件は米国の関与によってその後、米国、日本、韓国の北朝鮮政策にも大きな影響の輪を広げていくことになる。
(産経)
杜父魚文庫

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