11409 日中国交回復40周年の真実   加瀬英明

平成24(2012)年が、終わった。日本を1つの企業に譬えてみれば、先の大戦に敗れてから、胡散(うさん)臭い平和主義を旗印にして、それまで日本を支えた精神を捨てて、経済的な快楽を脇目も振らずに追求する、ビジネスモデルを採用してきた。
平成24年にこのビジネスモデルが、破綻した。この戦後のモデルを支えてきた日中関係に、亀裂が走った。昭和47(1972)年に日中国交正常化が行われて以来、日本が描いてきた「日中友好」の幻想が破られた。
■日中友好の幻想
私はその以前から、中国が日本と相容れない専制国家であるうえに、3000年のおぞましい政治文化を受け継いだ中華帝国であるから、警戒すべきだと説いてきた。
昨年は、日中国交40周年に当たった。中国が日本へ向かって醜い牙を剥いて、本性を現わしたために、中国について無知であってきた日本の善男善女も、 目を醒ました。
私は田中内閣によって日中国交正常化が強行された時に、雑誌『諸君』などの紙面をかりて、朝日新聞をはじめとするマスコミが、まるで安酒に酔ったように日中国交正常化を煽りまくったことを、批判した。
■中国の本質とは何か
その翌年に、宮崎正弘氏が編集者として働いていた浪漫社から発表した著書のなかで、「田中首相が訪中した時の秋晴れ 北京友好の旗高くとか、拍手の中しっかりといま握手 とけ合う心 熱烈歓迎といった見出しをみていると、日本、ナチス・ドイツ、イタリアの三国同盟が結ばれた後に、松岡ミッションがベルリンの目抜き通りをパレードした時の新聞の見出しのように思えてしかたがない」(『新聞批判入門』と、揶揄した。
私は日中国交を結ぶのに当たって、日台関係について中国の言い成りになったことを、批判した。当時、中国は中ソ戦争が起ることに脅えていたから、中国のほうが日本を強く必要としていた。
■日中国交回復の中の選択
「私は太平外相を囲む席にでた。新聞は日中国交正常化を急ぐことを、筆を揃えて要求していた。私は『いったい、それほど急ぐ必要があるのでしょうか?』と、たずねた。すると外相は、『日中問題は国内問題だ』といいきった。外相は正しかったのだ」「日本にとって3つの中国があった。中華人民共和国と、中華民国と、日本の国内問題としての中国である。この3番目の中国は、新聞がつくりあげたものだった。田中内閣が相手に選んだのは、3番目の中国であった」(同)
■アメリカは日本より7年も遅れの国交回復
アメリカは日本より7年も遅れて、米中国交を樹立した。中華民国と断交したものの、同時にアメリカ議会が台湾関係法を制定して、台湾を防衛することを義務づけてきた。
私は台湾が中国に呑み込まれて亡びれば、日本も亡びるから、日台は一体であると説いてきた。それなのに、日本は愚かにも進んで台湾との関係を絶って、台湾を放棄した。
日本は米中国交樹立を待って、日中国交を結ぶべきだった。
■尖閣諸島の帰属とは
尖閣諸島は疑いもなく、日本の領土である。日本政府が明治18(1885)年から尖閣諸島の現地調査を行って、中国清朝の支配下にない無人島であることを慎重に確認したうえで、10年後に領土として編入した。
いまになって、中国は日本が清から略取したと主張して、「日本が盗んだ」といって騒ぎたてているが、中国がはじめて尖閣諸島の領有権を主張したのは、昭和46(1971)年に国連の経済委員会が東シナ海の海底に巨大なガス田、油田が埋蔵されていると発表した年内のことである。
■中国の状況
その翌年に、田中首相が北京入りして、日中国交正常化が行われた。田中首相が尖閣諸島に触れたところ、周恩来首相が慌てて「ここではやりたくない」といって逃げたのを、田中首相が国交正常化を焦ったために頷いた。
昭和53(1978)年10月に、中国の最高実力者だった鄧小平副首相が来日した6ヶ月前に、中国の百数十隻の漁船が尖閣諸島を取り囲んで、日本政府を狼狽(ろうばい)させた。
鄧副首相は来日すると、尖閣諸島の領土問題を「1972年の合意に基いて棚上げしよう」と、提案した。日本側はそのような了解が存在しなかったと否定するべきだったのに、国家にとって領土が生命であるのを忘れて、中国に媚びて受け容れたために、大きな禍根をつくった。
■中国は「領海法」を制定
中国は平成4(1992)年2月に、尖閣諸島を自国領土として規定した「領海法」を制定することによって、中国から言い出した「棚上げ」論を反古(ほご)にしてしまった。それにもかかわらず、宮沢喜一内閣は天皇がその秋にご訪中されることを決定した。
私はこの年8月に、宮沢内閣が天皇ご訪中について14人の有識者から首相官邸において個別に意見を聴取したが、その1人として招かれた。
私は陛下が中国のように人権を蹂躙している国に御幸されるのはふさわしくないうえ、ご訪中によって中国が2月にわが尖閣諸島を領土として含めた領海法を施行したのを、容認することになると、反対意見を述べた。
その後、中国人活動家グループが、尖閣諸島領海に不法侵入する事件が、あいついで発生した。日本政府は、中国、香港の活動家がわが国の主権を侵す目的をもって魚釣島に上陸したのを逮捕、検束したのにもかかわらず、中国を刺激するのを恐れて、釈放した。
政府は日本国民のみならず、尖閣諸島が沖縄県石垣市に属しているのにもかかわらず、市職員まで現状を変更することになるといって、尖閣諸島に上陸することを禁じてきた。
野田内閣も尖閣諸島の「平穏かつ安定的な管理」を唱えて、無為無策に終始した。このような怯懦な姿勢が、中国をいっそう慢心させた。
野田内閣が昨年9月に尖閣諸島の国有化を決定したところ、中国全土にわたって大規模な官製の反日暴動が荒れ狂った。
日本の大手のマスコミによって、政府が国有化を決めたことによって、「棚上げ」されていた現状を壊したために、中国の反日暴動に火をつけたという見方がひろめられた。
とんでもない言い掛かりだ。その半年前の3月16日に、中国の国家海洋局所属の海洋監視船「海監50」と、もう一隻の中国の公船が尖閣諸島沖で、日本領海を侵犯したのに対して、わが海上保安庁の巡視船が警告したところ、「釣魚島(中国側の魚釣島の呼称)を含むその他の島は中国の領土だ」と応答し、逆に巡視船に退去するように要求した。
これまで、中国公船によるこのような傍若無人な行動はなかった。中国は1978年以降、「棚上げ」の合意を、つぎつぎと破ってきた。
■習近平体制の動向
中国で11月に、習近平新体制が発足した。
習総書記兼中央軍事委員会主席は就任に当たって、「近代以降、中華民族は最も危険な時を迎えたが、中国共産党の創立後は団結して民族の偉大な復興を成し遂げた。引き続き中華民族の偉大な復興のため奮闘努力しよう」「軍事闘争の準備を最重視する方針を堅持、国家主権と安全、発展の利益を断固守る」と訴えた。
中華帝国は歴史を通じて、周りの地域を略取して膨張してきた。
清も、目に余るものがあった。17世紀から18世紀にかけて、康熙帝がシベリアのアムール河流域から、外モンゴル、チベットまで支配し、乾隆帝が東トルキスタン(現新疆ウィグル自治区)から、ヒマラヤ山脈を越えてネパールまで攻略した。乾隆帝は今日でも中国史において、「十全の武功」を修めたとして称えられている。
日本はアメリカ軍の援けなしに、尖閣諸島すら守れない。多くの日本国民が日本が「平和主義国家」であることを誇ってきたが、他人に縋(すが)って贅沢な暮しをしているのを、自慢しているのとかわらない。何と卑しいことか。
杜父魚文庫

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