11410 徳利片手に「墓場の前尾学校で真理を教え直す」  古澤襄

ものごとには、表もあれば裏もある。不滅の真理なのだが、人間の愚かさが表しか見ずに、これが自分の真理だと信じたがる。政争というのは、この手の狭い人間根性の争いだから、百年もたてば不毛の争いだったと分かってしまう。右往左往した人間の愚かさを歴史から学ぶしかない。
右往左往という言葉の面白みを語ってくれたのは、前尾繁三郎という政治家だった。「時計の針が右に振れれば、やがて左に振れる」「政治というのは右に左に振れながら螺旋階段を登る」「北風より南風が相手を屈服させる」という名言をいくつか遺した。
前尾繁三郎(まえお しげさぶろう 1905年12月10日 – 1981年7月23日)・・・政界一の読書家で蔵書は和漢、欧米の原書など約四万冊。サシで話をして、これほど興味を持った政界人はいない。
それが無類の酒好き。選挙の時に宣伝車のトラックに七輪を持ち込んで熱燗をやりながら選挙運動をし、ある夜、暗い夜道に牛が出てきて酔っぱらった前尾氏は、牛に頭を下げたという伝説が残る。”暗闇の牛”といわれた。
私が前尾氏を知ったのは、池田内閣が誕生した夜、信濃町の池田邸の前で立ち番をしていたら、一人の酔っぱらいが池田邸の前でふらふらしながら、門をくぐれないでいたのを助けたのがきっかけ。手を引いて玄関口まで連れていったら、伊藤昌哉氏が現れて「前尾先生、大丈夫ですか・・・」。
それでこの酔っぱらいが、池田の弟分・刎頸の仲の前尾繁三郎と知った。ただの酔っぱらいではない。数日後に渋谷松濤町の前尾邸に夜回りをかけたら、「やあ、世話になった」と言う。ぐでんぐでんに酔っぱらっていた様にみえたが、ちゃんと覚えていた。
旧制第一高等学校の時代に作家・高見順と同級生だったことから、話がはずんで前尾邸に夜回りをかけるのが楽しみになった。前尾も人の子、親しくなると大平正芳氏には厳しい批判をしていた。政界引退後は旧京都2区の地盤は野中広務が引き継いだが、野中氏に対する批判も厳しい。
政界一の教養人といわれながら、右往左往の現実政治には、どこか超然としていたから総理にはなれずに衆院議長で終わった。一九八一年夏に死去して三十二年間たつが、いまの安倍政権をみて何と評するか興味がある。
前尾流にいえば、右の安倍政権は始まったばかりだから、時計の針は右に振れ続けるが、いずれ左に振れ戻るということであろう。前尾氏の口から左翼とか右翼という言葉を聞いたことがない。戦後、民主化された日本で、戦前復帰の右翼軍国主義が台頭すると思うのは、歴史を知らない愚者の妄言でしかない。
左翼とか右翼といって、いきり立つよりもウヨとかサヨといって、時計の針が極端から極端に振れるのを戒めるのが上策なのではないか。だが右往左往する小粒の政治家には理解不能の真理なのであろう。墓場にくれば前尾学校で一から真理を教え直すと徳利片手に笑っている姿が目に浮かぶ。
杜父魚文庫

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