インフレ・ターゲット論が起こる度に思いだすのは、第55代首相の石橋湛山(いしばし たんざん、明治17年9月25日 – 昭和48年4月25日)氏。戦前は『東洋経済新報』の主幹・社長を歴任して、戦後は吉田首相に乞われて蔵相となり、経済安定本部長官、物価庁長官を兼務して経済再建策を一手に握った。
いわゆる積極財政論者でケインズ経済学の信奉者としても有名だった。GHQの占領政策に対してズケズケものを言い、占領軍の専用ゴルフ場の建設や清浄野菜の温室建設費をバッサリ予算から削る硬骨漢ぶりをみせた。新円切り替えでGHQと対立、怒ったGHQは湛山を追放令で追い出した。
湛山にしてみれば、デフレーションを制する為のインフレーションを進めて、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進したから、経済・財政で素人のGHQの横やりは我慢できなかったといえる。
経済学徒として一方の雄だった湛山は、インフレ屋といわれながら、その理論を支えているのは”完全雇用”に置いていた。湛山の学説は『インフレーションの理論と實際』(東京書房 1932年7月8日)がある。
岸信介氏と争った自民党総裁選挙で、漫画家の近藤日出造氏との対談で、近藤氏が「石橋と書いてインフレと読む者がいる」と言ったら
「インフレを歓迎するする奴はいないよ。ただ、ぼくはだね、失業者を出すか、インフレをとるかとなると、むしろインフレをとる方がいいと思うんですよ」と答えている。
湛山の積極財政論は弟子格の池田勇人氏に伝わり、それが田中角栄氏の日本列島改造計画になった。さらに岸信介氏の孫である安倍首相のインフレ・ターゲット論に繋がっている点は興味深い。
湛山の積極財政論に対して、岸信介氏の後継者・福田赳夫氏は安定経済成長政策を主張、池田・高度成長政策に異を唱えて、角栄路線とは”角・福戦争”にまで発展した。
日本経済はバブル崩壊で、福田路線が主流となって長引く不況に対しても、財務省主導の縮小均衡経済の安全運転で今日に至っている。
経済にはズブの素人だった河野一郎氏が「経済は伸ばせる時には目一杯伸ばして、縮むときに目一杯縮む」という”尺取り虫”論を唱えていたが、ジャーナリスト出身らしい論評だったと思っている。
杜父魚文庫
11459 石橋湛山元首相のインフレ論 古澤襄

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