北朝鮮による日本国民拉致事件は今年、なんとか解決への前進をみたいところです。
そんな思いをこめて産経新聞が企画した「再び、拉致を追う」という連載記事でアメリカとのからみについて以下のような記事を私が書きました。
<【再び、拉致を追う】第4部 日米関係の中の拉致事件(4)米国編>
■早紀江さん証言に議員ら涙
「娘は工作船の暗い船底に閉じ込められ、『お母さん助けて、お母さん助けて』と壁をかきむしって、絶叫し続け、暗い海を運ばれたといいます」
米議会の高い天井の公聴会室に横田早紀江さんの万感をこめた声が響いた。ほぼ同時の米国人女性の通訳が続く。2006年4月27日、下院国際関係委員会が開いた北朝鮮の国際的拉致に対する公聴会だった。
早紀江さんは29年前に13歳だった娘のめぐみさんが凍土の共和国へと連れ去られた模様を脱北した元工作員の供述などを引用して証言するのだった。満員の会場は静まりかえり、議員たちは涙をぬぐった。
翌日、ジョージ・W・ブッシュ大統領は早紀江さんと息子の拓也さんをホワイトハウスに招き、愛する家族を北朝鮮に奪われた悲劇に耳を傾けた。大統領は「国 家が外国の子供を拉致するとは信じ難い」と北朝鮮の蛮行を非難した。そして早紀江さんとの会談を「大統領になってから最も感動的な会合」と評した。
ブッシュ大統領はその後も、ことあるごとに早紀江さんとの話し合いを「大統領になるとこんな貴重で感動的な会談ができる」とたたえ続けた。愛する子を拉致された母への同情だけでなく彼女のオーラに胸を揺さぶられたことを忘れられないという反応だった。
思えばこの時期が北朝鮮の日本人拉致解決への米国の協力が最も目にみえて鮮烈だったといえよう。早紀江さんの議会証言や大統領訪問は米側メディアでも幅広く報じられた。
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米側の協力が議会や大統領の直接の関与にまで高まるにはいくつかの段階があった。北朝鮮の拉致自認の後、日本側の「家族会」「救う会」の代表たちは03年から06年まで毎年、ワシントンを訪れた。
そのたびに現役の議員で最も熱心に対応したのが上院外交委員会の東アジア太平洋小委員長のサム・ブラウンバック議員だった。
当時40代の同議員は共和党若手ホープとされたが、中西部カンザス州選出で支援母体は日本人拉致にはおよそかかわりがなかった。だが、どうしてここまでと いぶかるほど、積極的に日本側の家族たちを応援した。
自分の議員事務所を「家族会」の記者会見や打ち合わせの場に提供し、他の議員への訴えでも先頭に立っ た。政府への働きかけも上院議員の重みをフルに使って日本側の苦境と北朝鮮の非道への適切な措置を求め続けた。
長身でもの静かなブラウンバック氏は敬虔(けいけん)なキリスト教信徒で、拉致という国家テロへの反対という人道主義の普遍性からの行動だったのだろう。ちなみに08年の米国大統領選では候補の一人に推され、いまはカンザス州知事である。
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ブラウンバック議員が先頭に立って推進したのが北朝鮮人権法だった。北朝鮮の人権弾圧を非難し、被害者の救済にあたり、経済援助も北が日本人拉致を含む弾圧やテロを清算することを条件とする法律だった。
04年10月にこの法律が成立したことで米国の北朝鮮政策には日本人拉致解決も必須の要件として組み込まれた観となった。
その一方、北朝鮮の核兵器開発も国際課題としての重みを増し、その阻止のための6カ国協議が03年8月に北京で初会合を開いた。日本はこの場で日本人拉致 も議題とすることを求めた。
だが北朝鮮、中国、韓国ともに難色を示した。「核か、拉致か」の優先選択がここでまた大きく浮かびあがる。
ブラウンバック議員はこの流れのなかで「北朝鮮は日本人拉致事件を解決しない限り、テロ国家という断定から逃れられない」と主張し続けたのだった。横田早 紀江さんが議会で証言したことの背景にはこうした展開があったのである。しかし、米政府の姿勢はその後、ジグザグの曲折をたどることになる。(ワシントン 古森義久)
杜父魚文庫
11462 拉致問題でのアメリカの支援とは 古森義久

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