11605 この冬、亡くなる人が多いなあ  岩見隆夫

この冬、亡くなる方が多い。特に今年、ということではないのかもしれないが、そんな気がして仕方ない。
一月十五日、映画界の鬼才、大島渚監督が八十歳で死去された。翌十六日、アルジェリアで人質事件が発生、多くの日本人が犠牲になる。
その三日あと、郷里の中学校でお世話になったK先生が八十六歳で亡くなった。敗戦の三年後に私は中学校に入学したが、そのころK先生は二十二歳、いまから思うと血気さかん、私たちの親分的な存在だった。ご遺族に、
〈……先生は迷える私たちを力強く引っ張ってくださった。まぎれもなく、あの時から戦後日本の復興は始まったのだと思い、感無量です。ご恩に深く感謝し、……〉
と弔電を打った。決して誇張でなく、素直な実感である。K先生だけでなく、あのころの教師は食糧難に悩まされながらも、目が輝き、明日に向かってがむしゃらに走っているという印象だった。私たちも文句なくあとについて走った。
ビンタも張られ、痛くないわけではなかったが、そんなことより日々の充足感の方がはるかにまさっていた。いい時代だった。K先生の日に焼けた顔、白い歯、ガハハの笑い声をいまも鮮やかに思い出せる。
大学に合格した時、K先生は警察署の向かいのしょぼくれた小料理屋で二人だけの祝宴を張ってくださった。初めて呑んだ日本酒。先生の教え子の、中学を出たばかりの女の子がお手伝いさんでいて、お酌をしてもらったのを覚えている。
あのころ、教師と生徒の間は、人間的なぬくもりでつながっていた。生徒は尊敬心を持ち、路上で教師が向こうからやってくると、立ち止まって通りすぎるのを待ち、お辞儀をしたものだ。何の抵抗もなく、自然に。
体罰を受けて自殺する、などということが起こるはずもない。大阪で起きたこんどの事件の場合、暴力教師は四十七歳だそうだが、その教師が小学校に入ったのは一九七二、三年ごろだ。世の中、どんな様子だったかといえば、連合赤軍によるあさま山荘事件が起き、一方、田中角栄首相の日本列島改造論をきっかけに土地ブーム、狂乱物価で社会はすさむ。ゴルフブームが起こり、ゴルフ場の造成がさかんになったりした。
モノ・カネ中心の世相に陥り、享楽的な空気が広がったのである。このころから学校教育も劣化したのではなかろうか。大阪市の橋下徹市長が問題校の入試中止を通告したのは短絡的で、教育改革はもっと根源的なところから問い直さなければならないのだろう。
 ◇〈巨人、大鵬、卵焼き〉 大鵬は気に入らなかった
話がそれてしまったが、K先生の死去と同じ十九日、元横綱大鵬の納谷幸喜さんが七十二歳で亡くなった。どの新聞、テレビも追悼報道・番組で、
〈巨人、大鵬、卵焼き〉という忘れかけていた、なつかしいはやり文句を使って、大鵬の偉業をたたえた。
この文句、いつ、だれが言いだしたのか、と思っていたが、こんどの報道で作家の堺屋太一さん(七十七歳)とわかった。堺屋さんによると、一九六〇年代前半、通産省に勤務していたころ、日本の高度経済成長について、新聞記者らに問われ、
「『巨人、大鵬、卵焼き』と同じだ」
と答えたのが始まりだったという(一月二十日付『読売新聞』)。弁当のおかずで卵焼きが定番だった時代、子供たちがあこがれ、愛したのは野球の巨人、大相撲ではやたら強い大鵬、時代背景に戦後の荒廃の時代が終わり、高度経済成長のはずんだ空気があった、というわけだ。
堺屋さんは役人生活をしながら小説を執筆、七五年、石油を断たれた日本のパニック状態をリアルに描いた『油断』を刊行、翌七六年にはだぶついた中年層のみじめさを題材にした『団塊の世代』を発表する。両方の題名とも流行語になったが、とりわけ〈団塊の世代〉はいまも日常的に使われるほど定着した。時代を象徴するフレーズをあみだす名人である。
しかし、〈巨人、大鵬、卵焼き〉は大鵬が気に入らなかったという話は面白い。
「有望選手を金で集めれば勝つのは当たり前。こっちは裸一貫、一人で勝ち取ったんだから」
と団体競技の巨人と一緒にされるのを嫌っていたそうだ。卵焼きが消えることはないだろうし、巨人は不滅かもしれないが、大鵬は引退(一九七一年)から四十二年後に世を去った。寂しいことである。晩年は、
「日本は豊かになりすぎた」と嘆いていたという。敗戦後、サハリンから母親の故郷、北海道に引き揚げ、地元の営林署で働きながら定時制高校に通っていたころ、巡業に訪れた二所ノ関部屋にスカウトされるのだが、当時の貧しさと苦労が大鵬には貴重なものに思えていたのだろう。豊かになりすぎたことが、昨今の日本人力士の不振につながっている、と考えていたのではないか。
この冬より少し前のことになるが、戦後初の衆院選で社会党から出馬(のちに自民党に)、当選した山口シヅエさんが九十四歳で亡くなっていたのがわかったのも、昨年の十月末だった。東京が地盤で〈下町の太陽〉と呼ばれ、一時期、たえず国会で話題をまいた名物女性議員である。
また十月十三日には作家の丸谷才一さんが八十七歳で亡くなった。『女ざかり』(九三年刊)を書かれる前、
「新聞社の論説室の内情を知りたい」と言われ、銀座の小料理屋でご馳走になったことがある。ビールを常温で呑まれたのが記憶に残っている。
十一月十五日、先輩の政治評論家、三宅久之さんも死去した。八十二歳。テレビの三宅流話術はだれにも真似できない。
惜しい方々ばかりである。大鵬以外はみなさん八十代以上、ほとんど昭和ひとケタ生まれだ。昭和は遠く、と言われればそうに違いないが、年初、昭和十二年生まれ、七十五歳の黒田夏子さんが芥川賞を受賞、という朗報もあった。
<今週のひと言> アルジェリアの悲劇、政府、企業に責任はないのか。(サンデー毎日)
杜父魚文庫

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