昨日一月三十一日を以て各党の代表質問が済んだ。これは、総理の所信表明に対する代表質問であるから、質問を通じて各党代表がその所信(政治信念)を表明するものでなければならない。
その意味で、三十日の維新の会平沼赳夫団長の代表質問は、まことに所信表明の名に値する唯一のものだった。
平沼質問は冒頭の二項目において「群」を抜いていたのである。その抜かれた「群」(むれ)のなかに、安倍総理の所信表明も入る。
では、冒頭の二項目とは何か、皇統維持、國體護持、のこと。そして、日本国憲法とは何か、ということ。
記憶を辿って戴きたい。
今までの歴代総理の所信表明と党代表の質問、即ち、衆議院本会議場に於ける論戦において、未だかつて、我が国の最重要課題である不可分一体のこの二項目を、真っ正面から取りあげた所信表明が為されたであろうか。
この二つの課題は、我が国の太古から顕れて現在に至る我が国の「国の形」、即ち、「國體」と根本規範を我が身に血肉化している「士」でなければ提起し得ないものである。
「戦後からの脱却」とは、この我が国の國體と根本規範を取り戻すということなのだ。
何故なら、「戦後」とは、まさにこの「國體」を封印して我が国を商人国家に閉じこめ、国民にエコノミックアニマルとして生きることを奨励する時代であるからだ。
しかし、深思して欲しい。
我が国の、國體から目を逸らして、本会議場で効率的か効率的でないか、採算はとれるのかとれないのか、儲かるか儲からないかの話をしているだけで、国は保つのか。
日本が日本でなくなって、無国籍で要領の良い者だけが金を儲けて得意に生きる、三島由紀夫が嘆いた「無機質で抜け目のない国」に住みたくないならば、
今こそ抽象的な「日本を取り戻す」というスローガンで、自民党のようにお茶を濁すのではなく、日本の國體、皇統継承の原則、さらに我が国の真の憲法即ち根本規範を取り戻さねばならない。
屈原曰く、「衆人皆酔うも、我一人醒む」と。この度の、国会論戦、総理以下皆、未だ戦後体制に酔う衆人、平沼赳夫団長、一人醒む。
昨日三十一日、院内の控え室で平沼団長と会ったとき、「昨日は、ご苦労様でした。私の知人は、涙を流して先生の代表質問を聞いていたと言っていましたよ」とお伝えした。
さて、この度の平沼質問の格調は、備中松山藩の山田方谷の哲学と事跡を紹介したことからももたらされている。
平沼赳夫団長は、本会議場で、「我が郷里岡山、備中松山藩の山田方谷は・・・」、と語り始められた。何故なら、現下の我が国を取り巻く内外の情勢の中で、山田方谷に学ぶことは、死活的に重要であるからだ。
次に、山田方谷の実践を一つ紹介する。
山田方谷は、藩侯から最貧状態に陥った備中松山藩の財政立て直しを命じられた。その時、彼は、財政を立て直すために、同時に、教育(文)を立て直し、軍備(武)を増強する、と主張した。
周囲皆反対した。その資金がないと。そこで、山田方谷は彼等に問うた。
そういう今までの考えで藩の財政を立て直し得たのか、財政の「専門家」を自認する君たちが何故今まで藩財政の立て直しに失敗し続けてきたのか、その理由をまず私に説明せよ。
資金がないから何もできないという課題の中に埋没した考えを止め、その課題の外の大局に立て。
山田方谷は、八十年後のケインズに先駆けて幕末にケインズ的手法(公共事業、資金の流通拡大、減税)で藩財政を一挙に再建した。
数年後には、旅人は標識が無くとも、整備された道路と田畑の状況から、備中松山藩内に入ったと分かったという。
先祖が、山田方谷に共鳴して援助もした備中の庄屋である矢吹邦彦氏は、山田方谷の実践を調べて、「ケインズに先駆けた日本人・・・山田方谷外伝」と「炎の陽明学・・・山田方谷伝」を書かれている(共に、明徳出版)。ご一読されたい。
私は、幕末の山田方谷と西郷隆盛を最も尊崇している。
二人は同時代を生き抜き、ともに尊皇の志篤く、そして同じ年(明治十年)に没した。さらに、両者没後六十三年目の昭和十三年、山田方谷の養子の孫である山田準が、「西郷南洲遺訓」(岩波文庫)を編纂した。
両者は、考え方も同じである。次に、今に通用する山田方谷の実践と同じ西郷さんの言葉を遺訓から紹介する。
「政(まつりごと)の大體は、文を興し、武を振るひ、農を励ますの三つにあり。其他百般の事務は皆この三つの物を助くるの具也」
今こそ、我々は、この西郷さんの遺訓と山田方谷の実践から学ばなければ、国土を奪われ国家を属国にされる、このことを自覚されたい。即ち、今こそ、我が国の、文を興し、武を振るい、農を励ますのだ。
なお、平沼団長も指摘されていたが、農民兵つまり身分を越えた編成の国民軍を最初に組織して洋式訓練を施したのは、長州の高杉晋作ではなく、山田方谷である。
「方谷全集」を見ると、部隊行進の隊形の図式と、それを命じるオランダ語の号令が方谷の手によって詳しく書かれている。
長州の吉田松陰門下の英傑久坂玄瑞は、長州に帰る途上、備中松山藩に立ち寄った際、この洋式の号令一下自在に隊列を変えて運動する国民軍の軍事訓練を見て腰を抜かし、帰国して報告した。それが後の長州の奇兵隊につながる。
備中松山藩のお城は今でも残っている。何故なら、戊辰戦争において、長州の奇兵隊は、佐幕方の備中松山藩の国民軍(奇兵隊)を恐れて攻め入ることを控えたからだ。
小藩だと軽くみて備中松山藩内に攻め入れば、山田方谷の精鋭である洋式装備と洋式訓練の国民軍に、こてんぱーにやられる、と判断したのだ。
このことからも明らかなように、「武を振るう」とは、戦争をすることにつながるよりも、戦争を回避することにつながるのだ。よって、我が国は、今こそ、武を振るわねばならない。
そうすれば、中共は、曾て長州が備中松山藩に攻め入ることを控えたように、日本を恐れ、尖閣への武力行使を控える。
三十日の平沼赳夫代表質問は、あたかも山田方谷と西郷さんが、平沼先生を通じて、同時に語っているようだった。まことに、有り難い、真の代表質問だった。
杜父魚文庫
コメント
地元でも財政再建の視点からのみ取り上げられますが、真髄は西村さんの注目された点です。「文と武」の関係が見事です。