11622 かつて体当たり的だった 岩見隆夫

日中両国の現状について、「まったく心配していない。なにしろ、両国は1500年のお付き合いだから」と政府首脳の一人は言うが、額面どおりに受け取ることはできない。昨年来の不穏な空気を感じていない国民は、それこそ一人もいないからだ。
1月28日、安倍晋三首相の初の所信表明演説では、<危機>が連発されたが、肝心の<中国>、<尖閣>はどこにもない。さらに<憲法>、<原発>もない。なぜなのか。
ところで、日中関係は戦後もっとも危機的状況といわれる。軍事専門家の多くが、<火を噴く>可能性に言及するのだ。両国首脳がそれを望むはずはなく、政治家の往来もひんぱんになっている。
年初以来、中国側の招きで、鳩山由紀夫元首相、山口那津男公明党代表、村山富市元首相、加藤紘一元自民党幹事長らが相次いで北京入りした。いずれも親中派で、日中間の緊張をほぐす役割を果たすことになれば結構なことだ。しかし、それだけでは足りない。
40年余前の日中国交正常化の前夜も、やはり危機だった。正常化の大役を果たした大平正芳外相(当時)が、「(正常化は)やらざるをえなかったのだよ。やらなければ、(田中角栄の)政権はもたなかった」
と苦衷を語るのを聞いたことがある。内外の情勢がそれを迫っていたからだが、身内の自民党台湾派の壁がもっとも厚かった。
当時、何人もの親中派政治家が、パイプ役を果たしている。松村謙三、高碕達之助、石橋湛山、浅沼稲次郎、古井喜実、田川誠一……。松村の初訪中は、正常化をさかのぼること13年の59年で、すでに76歳の老齢だった。
正常化のあとも、日中関係は平坦(へいたん)ではない。社会党の長老、八百板正(当時72歳)は78年1月、日中農業農民交流協会訪中団の団長として訪中するが、その前に岸信介元首相を訪ね、次のやりとりをしている。
「中国側に『岸訪中を受け入れる気はないか』と聞いてみたいが、どうだろうか」
「受け入れるかなあ」
「わかりませんよ」
「おもしろい。やってみるか」
岸の派閥を継いだ福田赳夫首相が日中平和友好条約の締結に腐心していたころだ。岸すでに81歳。八百板は対日関係の実力者、廖承志(りょうしょうし)に持ちかけ、廖は、
「大変結構な話です。われわれも考えないでもなかった」と答えている。前後して、親中派の宇都宮徳馬(71歳)も、岸の意向を確かめたうえ訪中、廖承志に、
「岸も来たいと言っている」と伝えると、廖は、
「えっ、岸さんが……。ほんとですか」と驚いてみせたという。この訪中話は結局実現しない。だが、台湾派の老巨頭である岸の出番を、親中派が作ろうとする。あのころ、政治家はダイナミックに動いた。
次の話もあまり知られていない。民社党の塚本三郎委員長が訪中したのは87年9月。与野党を問わず、政党の党首が交代すれば、北京詣でをするのが慣例のようになっていた。
塚本は最初断ったが、3度目の招待状に応じる。当時、日中間で<光華寮>問題が燃えさかっていた。戦前、京都大学が管理していた中国人留学生寮だが、戦後、中華人民共和国成立後に台湾が購入、中国支持の寮生を退去させたことから訴訟になる。
1審は寮生側が勝ち、2審は逆転、最高裁で係争中だった。北京は<中国は一つ>の立場から返還を強く要求、中曽根康弘首相、二階堂進自民党副総裁らが訪中のたびにてこずっていたのだ。
人民大会堂での会談で、最高指導者のトウ小平は、「アメリカは大統領と議会と裁判所の三つの政府がある。どの政府を信用していいかわからない。日本もアメリカの悪いところをまねないようにしてください」
と繰り返し、かみ合わない。業を煮やした塚本は、ついに、
「閣下、見苦しいから、もうそんな主張はおやめなさい。日中平和条約の第1条は<内政不干渉>を約束している。閣下は約束違反の第1号になりますよ」
と声を荒らげた。トウはやっとホコを収める−−。
塚本はいま85歳、先日会い改めて真相を聞いた。
「帰りぎわ、トウさん、出口まで送ってきてねえ、『今日はじめて日中間の政治のやり方の違いがわかった。時々北京に来て教えてください』と。逆に感心したなあ」
岸訪中計画、光華寮問題は長い日中関係史のほんの2コマにすぎない。だが、伝わってくるのは、かつて政治家は体当たり的だった。いまはそれが薄いのではないか。(敬称略)
杜父魚文庫

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