本日は、新聞における客観報道とは何かについて少し書いてみようと思います。実は、癖も好みも偏見もある生身の人間であり、理解力にも見識・知識にも自ずと限界があるそれぞれの記者にとって、客観報道とは言うほど簡単ではないというお話です。
新聞記事には主にストレートニュースと言われる事実関係を淡々と記すものと、解説記事やコラムのように、今後の展開の予想や問題点の指摘、記者独自の視点、考えをメインにしたものとがあります。
後者は署名入りとなるのが通常であり、当然、かなり主観的になるわけですが、無署名であることの多い前者であっても、ただ事実関係をそのまま記したものとは限りません。
その事実関係が日時や場所などであれば「脚注」のようなものを加える必要はほとんどありませんが、政治家など要人のときとして曖昧模糊とした発言の場合は、「これこれこう意味だ」と意味づけをしないと、デスクや上司から「この人はどういう意味で言っているの?。読者に真意が伝わると思うか」と問い合わせを受けます。それで上手く答えられないとダメ記者として扱われることになります。
ところが、それぞれの記者がじゃあ、発言者の真意をきちんとくみ取れているかというと、それは怪しい限りです。一応、担当の記者が記事を書くことが多いのですが、担当だからといって相手の全部を把握できるわけではないし、もともと不勉強だったり、発言背景を論理的に、順を追って考えることが苦手な記者だっています。なので、ここで勘違いや意味の取り違えが生じます。
一般読者からは「わざと」「悪意を持って」おかしな偏向報道をしていると受け止められることが多いし、そういう場合もなくはないのでしょうが、ふつうは単に真面目に考えて不正解にたどり着いているだけだろうと思います。人の話すことを正確にきちんととらえるというのが、実はけっこう難しいものであり、分かったつもりで勘違いしている場合が少なくないのは、日常生活で他者(親子、夫婦を含む)との会話を思えば誰しも思い当たることではないでしょうか。
一例を挙げます。安倍晋三首相は1日の参院本会議で、自民党が衆院選の政策集で「検討する」としていた沖縄県・尖閣諸島への公務員常駐についてこう述べました。
「尖閣諸島および海域を安定的に維持・管理するための選択肢の一つ」
これは、衆院選時の政策集にある考え方に変更はないことを言ったにすぎないと私は思います。まあ、それだって私がそう思うというだけですが、この言葉を聞いた当日の各紙夕刊記事での解釈が見事に食い違っていました。
朝日→尖閣周辺の海域へ領海侵犯を繰り返す中国への対応を強める狙いがある。
読売→尖閣諸島周辺では中国当局による領海侵犯が相次いでおり、首相は、毅然とした姿勢で対応する方針を強調したとみられる。
……両紙の記者は、安倍首相が公務員常駐に前向きな姿勢を表明したと受け止めたようです。ところが、全く逆の解釈をとったところもあります。
毎日→実際に常駐させれば日中関係は一層緊迫化するため後退させたとみられる。
……私はこれらの記事を書いた当人ではないので断言はできませんが、彼らは別に悪意や政治的意図をもって安倍首相の真意をねじ曲げようとしたわけではなく、彼らなりの理解に基づき、「そういうことだよな」と思って素直に、あるいは一生懸命書いただけだろうと思います。あるいは、その記者ではなくデスクや上司がそういう判断をしたのかもしれません。
特に、この公務員常駐の検討に関しては、はじめから「検討」と書いてあるのに、安倍首相はただちに実行すると勝手に思い込み、そう信じ込んでそれを前提として話すコメンテーターをよくテレビで見ました。
こんなの、安倍首相の「選択肢の一つ」という発言を待つまでもなく、最初から対中交渉の一つのカードであり、そっちの出方次第ではそうするぞという、実現可能性のある脅しであるのは明々白々なわけです。だって、そうでないと「常駐させる」と書かずに「常駐を検討」と書く意味がないわけですから。
ところが、テレビコメンテーターと同じく、安倍首相や自民党の外交的・戦略的思考が理解できない記者や編集者もたくさんいて、「ただちにやるんじゃないか」と勝手にびびっていたので、今回の「後退」などという表現が出てきたのだろうと見ています。
できるだけ客観報道に近づける努力は必要でしょうが、人は己の主観の範囲内でしかものを理解できないので、実は「口にするほど簡単ではない」と考えています。
人は正しいと信じて間違ったことをしでかす生き物でもあります。この安倍首相の発言に関する記事にしたって、テレビ放映されて沢山の人が見ている内容について、わざわざ後で糾弾されることを覚悟して捏造・偏向記事を書こうだなんて誰も思わないと思います。それでもこういう結果になります。
だから勘弁しろというのではありません。ダメなものはダメとどんどんご指摘ください。ただ、以前にも書きましたが、メディアや報道が今後少しずつ「マシ」になることはあっても、そんなに抜本的に改善されて素晴らしくなるなんてことはありえないと私は思います。
政治もそうですが、報道も所詮、人のやることであり、個別にはいいもの、光るものはあっても全体としては「ボチボチ」というあたりが限界だろうと思うのです。私は人間は主観という檻から一歩も出られない存在だろうと考えていますので、記事の客観性は常に意識しつつも、一定レベル以上、それを求めるのは難しいと思っています。
よく「記事に記者の主観はいらない」というご指摘を受けるのですが、対象をある程度「理解」して記事にする、あるいは記事にする対象の「価値判断」をして選ぶという段階でいずれにしろ主観は入ります。むろん、コラムはともかく一般記事では、主観をできるだけ排除したいとは思っているのですが……。
杜父魚文庫
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