風船で北朝鮮に飛ばす袋をさす崔成龍代表。袋には横田めぐみさんら、日本人を含む拉致被害者の名前が記されている「小泉、これぞサムライの顔!」。2002年9月18日、韓国紙にこんな見出しが躍った。
前日の日朝首脳会談で金正日総書記が敵であるはずの小泉純一郎首相に対して日本人拉致を認め謝罪したことに韓国は仰天した。
拉致被害者5人が日本に帰国した際は「日本が羨(うらや)ましい」という見出しも見られた。当時の韓国は対北融和路線「太陽政策」をとる金大中政権。南北首脳会談(00年6月)で韓国人拉致問題は議論さえされなかった。
「『日本が羨ましい』という言葉には、自国の拉致被害者を一人も救えない金大中政権に対する批判が込められていた」と月刊朝鮮前編集長の趙甲済(チョカプチェ)氏は当時を振り返る。
◆「日差しを私にも」
「飛行機から降りてくるのが父で、それを迎えるのが私ならどんなによかったか」。韓国の拉致被害者家族らで構成する「拉北者家族協議会」で当時、会長を務めていた崔祐英(チェ・ウヨン)さん(42)は、日本人拉致被害者が帰国し肉親と再会した映像を見てそう語った。
漁師だった父、崔宗錫(チョンソク)さん=拉致当時(41)=は1987年1月、黄海上で操業中に北朝鮮に拉致された。家には母と高校1年の崔さん、小学4年の弟が残された。12年後の99年に父が北の政治犯収容所にいることを知った。
崔さんは翌2000年に協議会を結成し、父をはじめとする韓国人拉致被害者の救出運動を始める。だが、政権も韓国社会も自国の拉致問題への関心度は低い。それどころか、韓国政府はこの年9月、スパイ容疑などで逮捕され、思想転向を拒否し服役した北朝鮮の「非転向長期囚」63人を、北朝鮮の要求に応じるかたちで北に送還した。
「北を照らす日差しを私にも向けて」。崔さんは太陽政策を取る韓国政府に必死に訴え続けた。
03年1月にソウルの高級ホテルで行われた南北閣僚級会談で、韓国人拉致を問題にしないことに抗議行動を起こした崔さんらは、会場から強制排除を受けた。警備員に押されて倒れた崔さん。氷点下の夜、韓国政府の冷たいあしらいに、地面に膝をついたまま「ワアワア」と子供のように泣くしかなかった。
韓国の拉致被害者家族は「韓国には家族会はあるけど、救う会がない」と口にする。それほど韓国社会の拉致問題への関心は低い。
韓国では朝鮮戦争(1950~53年)当時から現在まで、北朝鮮に多くの市民が拉致された。その規模は日本の比ではない。しかし、思想上の理由で自ら越北した者がいたこともあって、社会の目は冷めている。北朝鮮は南の同胞を政治宣伝に利用したり、工作員として使った。
奪還への被害者家族の願いが政府に届かなかっただけではない。その動機を疑われた家族は、情報機関から定期的に調査されるという屈辱も受けた。
心身ともに疲れ切った崔祐英さん。2006年末には北朝鮮から父について「生死確認不明」との情報が伝えられた。「疲れ果てたおまえの姿を見た父親がどう思うだろう」と案じる周囲の勧めもあり、崔さんは救出活動の一線から身を引くしかなかった。
◆「政府が駄目なら」
「政府が駄目だから、われわれでやらねばならない」。被害者家族らは自ら奪還に動き出す。
「拉北者家族会」の崔成龍(ソンヨン)代表(60)は、反北抗議集会を開いては逮捕され、何度も罰金を徴収された。しかし、それでも救出活動を続けてきた。
1967年、漁師だった父を、乗組員8人の漁船ごと黄海上で拉致された。乗組員の一部と船は韓国に戻ったが、そこに父の姿はなかった。「母の落胆ぶりは今も忘れられない」と崔代表。母は8年前、86歳で他界。朝鮮戦争を韓国陸軍第9師団で戦った父は70年に「処刑」されていた。
韓国では、これまで8人の拉致被害者が脱北し戻ったが、2000年以降、うち7人の帰還には民間人である崔代表が関わった。韓国では近年、被害者家族への補償や朝鮮戦争時の拉致被害者の名誉回復など法的措置が成立し、被害者家族の長年の努力がようやく、少しずつ実り始めている。
北朝鮮による韓国人拉致 北朝鮮は朝鮮戦争中に約8万人の韓国人を拉致した。人材不足を補う目的とみられ、被害者は医者や学者など知識人が多かった。休戦後の拉致は漁民が多い(政府認定517人)。うち8人は脱北し帰還した。(産経)>
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