11866 毛沢東の晩年とその後   渡部亮次郎

1972年の春、ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが判明した。医師団が懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。
田中角栄首相が北京に乗り込んで日中国交正常化を一気に成し遂げたころ(1972年9月)であり、毛は田中首相らを引見した。このとき周恩来は国務総理として上海まで見送りに来て「天皇陛下によろしく」と田中に言った。
1975年には毛は両眼の白内障も悪化し、8月に右目の手術をして視力は回復したものの、秋には肺気腫から心臓病を引き起こして深刻な状況となった。
このころになると最高幹部に直接指示を与えることはほとんどなくなり、甥の毛遠新を連絡員として病床から指示を発するだけとなった。革命中のどさくさに生ませた子ども華国鋒はまだ側に呼び寄せてない。
毛沢東の体調悪化と時を同じくして、文化大革命による混乱の収拾と国家行政の再建に尽力していた国務院総理の周恩来も膀胱癌が悪化して病床を離れられなくなった。
そこで毛は周恩来の補佐として、1973年にトウ小平を復活させ、1974年にはトウを国務院常務副総理(第一副首相)に任命した。
トウ小平は病床の周恩来に代わり、1975年1月より党と国家の日常業務を主宰するようになった。トウ小平は一気に文革路線からの脱却を図ろうとした。
しかし文革を推進してきた江青ら四人組は反発し、周恩来・トウ小平批判を繰り返した。毛沢東の連絡員となった毛遠新は四人組のシンパであり、病床にあった毛沢東に対してトウ小平批判を伝えていた。
毛沢東も文革を否定するトウ小平を批判するようになった。1976年1月8日の周恩来死去をきっかけに、同年4月5日、第一次天安門事件が発生すると、毛はトウ小平をまたまた失脚させた。
周恩来、朱徳(1976年7月6日没)と、「革命の元勲」が立て続けにこの世を去るなか、1976年9月9日0時10分、北京の中南海にある自宅において、毛沢東は82歳で死去した。
毛沢東の死の直後に腹心の江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人組は華国鋒主席によって逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている。私も見た。
毛の死去後、江青ら四人組を逮捕・失脚させて党主席に就任した華国鋒は毛が革命中にある女性に生ませた子である。それを背景にある時期から「ヘリコプター式」に出世し「二つのすべて」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。
これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。
先に復活していたトウ小平はこれに対して「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。
園田直外務大臣ら日本側の一行が北京に乗り込んで日中平和友好条約の調印に応じたのはこのころである。華国鋒主席は園田氏と会見したが、、同席した私には全く元気がなく見えた。
党と軍の大勢はトウ小平を支持し、その後トウ小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い、「二つのすべて」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。
また党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた。
毛沢東思想として知られる彼の共産主義思想は、海外、特にインド以東のアジアとラテンアメリカの共産主義者にも影響を与えた。
内政においては、大躍進政策の失敗や文化大革命を引き起こしたことにより数千万とも言われる大多数の死者を出し、国力を低下させたが、「中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として、その影響力は未だ根強く残っている。
しかし文化大革命で失脚したうえに迫害されたトウ小平らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされた。
毛沢東の評価については毀誉褒貶があるものの、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識である。
例えば1989年の第2次天安門事件直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声が沸き起こったと報道された。
一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。
第2次天安門事件の後、生誕100周年に当たる1993年前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。
毛沢東の死後、中国は改革開放によって経済が発展する一方、所得格差の拡大や党幹部・官僚の腐敗といった社会矛盾が顕著になっていった。
かような状況の下、困窮に苦しむ人々が「毛沢東は平等社会を目指した」と信じ、毛の肖像や『毛沢東語録』を掲げて抗議活動を行う事例もある。
毛の117回目の誕生日に当たる2010年12月26日には、北京で情者らが「毛沢東万歳」と叫びながらデモを行った。
私見だが、党幹部の汚職や私腹肥やしに対する大衆の反発で共産党支配が壊滅する時、大衆は「公平」を旨とした国家の祖として毛沢東を再評価するという矛盾を犯すだろう。(頂門の一針)
杜父魚文庫

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