11870 雨の二月二十七日  西村眞悟

二月二十六日は、やはり七十七年前の2・26事件を思った。一夜明けた二十七日の朝は雨だった。
雪にならず雨かと思いながら、乃木希典閣下夫妻と二人のご子息が眠る青山墓地の横を通り、市川團十郎の葬儀の準備をしている青山斎場を見ながら国会に向かった。
そして、高橋是清邸跡の公園を過ぎて豊川稲荷の前に来る頃、母の語ったことをまた思い出した。さらに、霞ヶ関を望んでフランス人ジャーナリストで2・26事件直前に東京に赴任してきたロベルト・ギランの2・26事件体験を思い出した。
娘時代の母は、その頃、高橋是清邸の近くに住んでいたという。二月二十五日の晩、丸の内で劇を鑑賞し、外に出ると一面に雪が積もり都電が動けずに路上に放置されていた。
雪の中を歩いて帰り、翌朝目覚めると、ラジオから「付近の人は、流れ弾に当たらないようにタンスの陰に隠れてください」というアナウンスがなされていた。
その頃、反乱部隊は、高橋是清を襲って殺害していたのだ。
フランスからシベリア鉄道で満州に入り東京へ赴任したロベルト・ギランは、東京にきて数日後に2・26事件に遭遇する。
そして二月二十六日の朝、騒然とする国会議事堂付近に駆けつける。すると、霞ヶ関の官庁街の路上に人が集まっている。そこに近寄って「クーデターか」と聞いた。すると一人の紳士が振り返って「天皇の国にクーデターはない」と答えた(ギラン著「アジア特電」)。
「置かれたところで咲きなさい」(Bloom Where God Planted You.)という感銘深い本を書かれた斉藤和子さんは、カトリックのシスターだが、2・26事件で殺害された渡辺錠太郞教育総監の末娘だ。
反乱軍は、九歳の娘の前で、その父親に向けて機関銃を乱射して殺害している。
その他、反乱軍将校たちの要人の殺害方法は等しく「乱射」に併せて日本刀で突きまくるというものである。
ただ、鈴木貫太郎だけが違った。頭と腹に銃弾を受けて心肺停止になった鈴木に、将校が止めを刺そうとしたとき、妻が「止めだけはやめてください、私が最後をみます」と言ったところ、以前、鈴木貫太郎宅を訪ねたことのある将校は、止めを刺さずに引き上げた。
それから妻は、鈴木を介抱し、大声で「あなた、しっかりしなさい!」と叫ぶ。すると、鈴木は目を開いて蘇生に向かう。
この鈴木貫太郎は、後に昭和二十年八月に内閣総理大臣として軍部の徹底抗戦の主張を抑え、ポツダム宣言を受諾する決定に漕ぎ着ける。
もしこのとき、鈴木がいなければと思うと、日本の運命を変えた妻の二月二十六日未明の「あなた、しっかりしなさい!」であった。
この鈴木貫太郎は、我が郷里である堺市の久世に生まれ、後に帝国海軍軍人として日露戦争に従軍し武勲をたてた。堺の久世公民館の横には、ひっそり「と鈴木貫太郎生誕の地」の碑が建てられている。
さて、2・26事件に関しては、当時から現代まで、心情的に同調するものと拒絶するものに分かれる。
そこではっきり書いておきたい。反乱軍の指揮官は、将校である。そして、憂国、義憤に駆られて決起した。
しかしながら、彼らが殺戮しようとして狙った老臣は、決して腐敗堕落の者ではなく、明治から昭和の国難を救った卓越した功臣だった。高橋是清を見よ、渡辺錠太郞を見よ、斉藤実を見よ。
 
国家にとって、このような功臣を殺戮した者は賊である。さらに、彼らの殺戮方法は、寝込みを襲って家族の前で機関銃を乱射するというものだ。斉藤和子さんは、父の肉片を浴びている。
この殺戮に、武士道の片鱗もない。
 
大石内蔵助は、吉良上野介にどういったか。部下は膝をついて吉良を囲み、大石は、一人吉良に近づき、「み首(しるし)、頂戴に上がりました」と言って、腹を自ら切るように短刀を差し出している。
反乱将校は、憂国から出でた行動と言われながら、標的選別の能力がなく狙う者を間違って武士道の片鱗もなく功臣を殺戮した。これは愚挙である。
杜父魚文庫

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