11875 書評「1942年 飢餓中国」  樋泉克夫

―――餓死300万人、飢餓難民300万人・・・それでも
<<『1942年 飢餓中国』(孟磊・関国鋒・郭小陽等 中華書局 2012年)>>   
1942(昭和17)年5月に日本軍はビルマ全域を制圧したものの、翌6月にはミッドウェー海戦に敗北。太平洋戦域での勝機を逃し、後退がはじまる。43年1月に日本は南京の汪兆銘政権と日華共同声明を発し、秋になると雨の神宮外苑で学徒出陣式が行われた。
同じ頃、河南省では大旱害が発生し、夏と秋には農作物が壊滅状態に陥り、300万人が餓死し、300万人が生きる道を求めて故郷を棄てた。歴史は微妙な姿で交錯するらしい。
09年冬、著者の一人である関国鋒は、42年から43年にかけて河南省で発生した凄まじいばかりの飢餓情況を記録した英国の『ロンドン・タイムズ』紙と米国の週刊誌『タイム』の写真に接し、「身を打ち震わすほどに驚愕を覚えた」という。
それというのも、故郷の先人が嘗めた悲惨極まりない歴史を、「生粋の河南人であり、70年代以後に生まれたメディア人として、これまで全く聞いたことがなかった」からだ。
かくて著者は「身に纏った襤褸、生気の失せた目、これ以上痩せられないほどにゲッソリと痩せ細った飢餓難民、車を引き、天秤棒を担ぎ、幼子の手を引き女の子を連れ、汽車に群がり略奪し、あるいは荒野に斃れ・・・それはまさしく生き地獄だ」と綴る。
そこで仲間を募り、①河南人として埋もれた歴史の真実が知りたい、②悲惨な歴史は未来への啓示たりうる、③ジャーナリストとしての責務から真実を知らせたい――を基本に現場に足を運び、生き証人を探しだしインタビューを重ね、この本を纏め上げたのである。
97歳の老女は語る――故郷では42年に発生した蝗の災害で、モロコシ、麦は悉く食べ尽くされてしまった。ダンナと一緒に生きる道を求め故郷を棄てる。難民生活の末に辿り着いた陝県観音堂駅近くで、穴を掘って定住することに決めた。なぜ駅周辺に集まるのか。汽車によじ登って、ともかく遠くの街に向かうのだ。街なら、乞食をしてでも何とか腹を満たせるのではなかろうか。誰もが同じようなことを考えるのだ。
ところが、である。駅周辺の木々の太い枝には子供が縛り付けられていた。食わせられないから棄てる。泣き叫ぶ子供を振り返ることなく親は去る。「可哀そうな子供は、すべて飢餓難民に食べられてしまった。なかには持ち去られ肉饅頭の餡に包まれ売られて」と、彼女はさめざめと涙を流す。
殺された子供たちの帽子を一箇所に集めたら、大きな籠に溢れるほど。爪を口にして初めて人肉饅頭だと気づく飢餓難民もいたが、どうしようもなかった。当時は、これは日々当たり前のこととして起こっていた。だが、誰にもどうにもできなかった。
「多くの人々が木の皮や雑草で飢えを充たした」「人の肉を食べたら目が赤くなった後ですぐ死ぬ」「家族がいい部分の肉を削ぎとって去ると、他の村人がやってきて残りを食べる」「人肉を食べると目が赤くなって、たちまち死んでしまう」「人間は犬畜生じゃない。木の皮、雑草を食べたって消化不良で腹はパンパンに膨れるだけだ」「毒草を食べ中毒死だ」
こういった悲惨な情況は「自然環境の変化より人為的要因」によって引き起こされると説く著者は、「物質生活が格段に改善された現在、70年前の大飢饉を追跡調査してみると、なにやら遠い昔のことのように思われる。だが人びとが、この歴史の教訓をしっかりと記憶し、“飢餓中国”を永遠に歴史の彼方に閉じ込めてしまうことを切望する」と呟く。

飢餓への恐怖というDNAが誘引するように思える現在の超爆食情況。あるいは著者の目には、現在の「爆食中国」の明日に恐怖の「飢餓中国」が見えているのかも知れない。
杜父魚文庫

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