「よく亡くなりますなあ」というのがあいさつ代わりのようになってしまった。当コラムでもつい先日、そのことを書いたばかりだが、引き続き各界の知名士の方々があちらに旅立たれている。
不順な天候などと因果関係があるのかどうか、なにしろ百年に一度の大規模な隕石落下が起きるご時世だから、何ごとにも驚かなくなっている。あの時、テレビスタジオにハガキ大の黒光りする隕石の現物を持参された国立天文台の渡部潤一副台長から、あとで、
「百万円で購入した」と聞かされ、びっくりした。隕石マーケットができているらしく、天から降ってきたものまで取引されている。
テレビと言えば、とだんだん話がそれそうだが、昨年末から政治評論家の三宅久之さんと映画監督の大島渚さんが相つぎ亡くなられ、私はこのお二人とテレビ朝日系の情報番組〈やじうまワイド〉でコメンテーター仲間だったことがある。二十年くらい前になるだろう。特に大島さんとは四年ほどコンビを組んでいた。
大島さん死去のあと、当時の番組スタッフ数人から電話がかかり、「お久しぶりですが、大丈夫ですか」
と同じことを聞く。八十二歳の三宅さん、八十歳の大島さんの次は順番からいったらあなただが、体調はいかが、と心配してくれているらしいのだ。
人のことを悲しんでいるうちに、こちらの番が近づいている。しかし、八十歳で政党の党首に納まる人がいるし、先週、たまたまテレビ会社の企画で対談した中曽根康弘元首相は、ジョークを交えながらぶちまくられた。この五月で九十五歳である。恐れ入るほかない。
寿命ばかりは人さまざまだから、別れが早いか遅いかはあまりこだわらない方がいいのだろう。とはいえ、縁のある人の他界はこたえる。岩波ホール総支配人の高野悦子さん(二月九日、大腸がんのため八十三歳で死去)がそうだった。
高野さんが映画文化の向上に質の高い貢献をされたことは広く知られており、私などが云々することではないが、各紙の死亡記事を読むと、どれも出生については、
〈旧満州生まれ〉としか記されていない。その満州で私とは接点があった。最初にお会いした時に、当然のように大連生まれの私と満州が話題になった。次のようなやりとりだったと記憶している。
「満州はどちらです?」と私。
「大石橋(満鉄の機関区のあるところ)で生まれ、一カ月後に大連に引っ越しましたね」
「大連は?」
「鳴鶴台」
「えーっ、ぼくと同じだ。じゃあ、学校は嶺前小学校?」
「そう」
奇遇である。地図を書いて確かめ合うと、二人の自宅は数軒しか離れていない。だが、私が六歳年下だから、一緒に在学したことが多分なく、親同士はともかく、当時は面識がなかった。
◇二人で訪ねた母校と家 さようなら同郷の先輩
高野さんの父上、高野與作さんは東大工学部土木工学科を卒業、国鉄に就職したが、すぐに満鉄に移ったという。やはり大連生まれで現・満鉄会常任理事の天野博之さんが昨年夏刊行した力作『満鉄特急「あじあ」の誕生』(原書房刊)によると、
〈特急列車「あじあ」運転の時に、高野は保線係主任として路線改良や線路曲線の緩和にあたった〉
という。與作さんは広々とした満州の広野にあこがれ、戦後、新幹線のモデルになった〈あじあ〉号を走らせる線路の保線に若き日を捧げたのだった。高野さんは三女である。
話が飛ぶが、成田−大連にANA(全日空)直行便が就航することになり、高野さんの仲介で私も一号機に便乗することになった。時期の記憶があやしく、ANA広報部に問い合わせると、一九八七年四月十六日の初飛行というから、二十六年も前、大連空港まで三時間ほどだった。
団長格で当時、ANA相談役の岡崎嘉平太さん(二代目社長)が乗っておられた。国交正常化前の日中経済交流に尽力され、周恩来首相らとも親交が深かった方である。
大連では、高野さんとまずかつての〈わが家〉を訪ねた。両方とも老朽がひどく、一部屋に一家族が詰め込みの生活をしている。敗戦から四十年以上も過ぎているのだから、スラム化は仕方ないとしても、わびしい思いをした。
母校の嶺前小ではなつかしの校舎、教室などをパチパチカメラに収めた。ところが帰ろうとすると、兵隊が追いかけてきて、二人ともフィルム没収である。かつての母校は、軍の施設に使われていたらしかった。
しかし、高野さんは精力的に動き、大連市長と面談して、大連での日本映画祭開催を約束したりしていた。後日実現し、満州在住経験のある俳優の森繁久彌さん、監督の山田洋次さんらが参加したと記憶している。
大連訪問からさらに二十年を経た二〇〇六年十一月、東京・九段会館で〈満州引揚60周年記念の集い〉が催され、シンポジウムのパネラーに高野さん、山田さん、作家のなかにし礼さん、末席に私も加わったことがあった。コーディネーターは前日銀副総裁で作家の藤原作弥さんという顔ぶれである。
この席で、高野さんは、
「父が、満鉄は四十年の歴史があるけれども、前半は先輩たちがつくり、育ててきた。我々はそれを引き継ぎ、葬式を出すことになった、と話すのを聞くたびに、やはり満州のことを思い出し、胸がキューンと痛むのです。
フランス留学中には、私はよく中国人に間違えられました。私が大柄だからかと思っていましたが、中国の悪口が出ると私がすぐ抗議するからだというのです。満州っ子には大和撫子と少し違ったところがあるのでしょうか」
などと満州への思い入れを語っていた。話が尽きない。(サンデー毎日)
杜父魚文庫
11877 高野悦子さんと「満州」のこと 岩見隆夫

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