アベノミクス・フィーバーの一方で、安倍外交もにぎやかだ。先のアジア歴訪に次いで、米、露、韓トップとの対話も一巡した。首脳会談の妙味は丁々発止である。公式発表には出てこないが、後から少しずつわかってくる。
1972年9月、日中国交回復を仕上げた田中角栄首相と中国の周恩来首相との丁々発止は、戦後首脳外交史の白眉(はくび)ではなかろうか。早野透桜美林大教授の新著「田中角栄」(中公新書・12年刊)によると、2人の侵略問答は次のようなものだった。
周首相が日本軍の侵略で殺された中国人は1100万人と詰め寄るので、田中は「あなた方も日本を攻めてきたことがあったけど、上陸に成功しなかったでしょ」と言ってしまった。周は色をなして怒り、
「それは元寇のことか。あれはわが国ではない。蒙古だぞ」と言う。田中は引き下がらない。
「1000年の昔、中国福建省から九州に攻めてきたではないか。その時も台風で失敗した」
「あんた、よく勉強してきましたね。たいしたもんだ」と周はほこを収めた−−。
「首脳会談というのは、そういうものだよ」と当時、「朝日新聞」記者の早野に田中が話したそうだ。私も田中訪中の随行記者団に加わったので、元寇の話は聞いていたが、福建省の一件は初めて知った。田中の野人的な外交が功を奏している。
ところで、安倍晋三首相とオバマ米大統領、森喜朗元首相とプーチン・ロシア大統領、麻生太郎副総理と朴槿恵(パククネ)韓国新大統領と、このところ会談続きだった。どんな丁々発止が隠されているのか、あるいはなかったか、いずれ漏れてくるだろう。
次の外交秘話は、26年後に明かされた。
85年5月、ボンで開かれた第11回サミット(主要先進国首脳会議)。会議の合間を縫って、中曽根康弘首相とレーガン米大統領の首脳会談がもたれた。陪席したのは安倍晋太郎外相と山崎拓官房副長官、米側はシュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官、リーガン財務長官の3人だった。
この席で、中曽根は思いがけない提案をする。
「この際、冷戦構造を解消しようではないか。冷戦構造の東西のフロント(前線)は欧州のベルリン、朝鮮半島の(韓国と北朝鮮の国境の北緯)38度線だ。ベルリンの壁の解消は、米国主導で北大西洋条約機構(NATO)でやってほしい。
38度線については、韓国は中国、ソ連と国交がない。北朝鮮は日本、米国と国交がない。だから、一気にたすき掛け承認をやって、38度線を取り払おう」
中曽根にとっては米・ウィリアムズバーグ、ロンドンに次いで3度目のサミット。<世界のナカソネ>と顔が売れ出していた。それにしても、大胆な発言だった。
会談はいったん中断され、レーガンは、
「ちょっと待ってくれ」と言って、シュルツ、ワインバーガー両長官を連れて別室に消える。しばらくして戻ってくると、
「いまの中曽根首相のオファー(提案)を我々は了承する」と述べたという。
山崎は<冷戦解消構想>で合意の大ニュースを同行記者にブリーフしようとしたが、安倍外相に
「いまの話は外に出すな」とクギを刺された。中曽根にも相談したが、米側と打ち合わせのうえで、
「やめておけ」と止められたという。
その後、中曽根提案どおりに展開したのはまずドイツで、89年、ベルリンの壁が撤去され、90年、東西両ドイツが統一を果たしている。次いで韓国も90年にソ連、92年に中国と国交正常化した。しかし、日米は北朝鮮といまだに正常化できず、従って冷戦構造の解消は完結していない。
この秘話は、山崎が一昨年、「日本経済新聞」電子版に連載した<わが体験的政界論>で初めて語られている。レーガン、安倍ら関係者も死去し、そろそろ、ということだろう。このなかで、山崎は、
「小泉純一郎氏が首相になったあと、ある時一杯飲みながら、このエピソードを話した。それだけが動機とは思わないけれど、彼は2002年9月17日に北朝鮮に行ったんです。
日朝国交正常化を実現するという、あの時の平壌宣言は、85年の中曽根・レーガン合意に遠因があると考えている」と推測した。
この合意秘話は、中曽根が昨年10月出版した「中曽根康弘が語る戦後日本外交」(新潮社)にも登場していない。(敬称略)
杜父魚文庫
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