11967 軍人でいえば石原完爾型の古澤元   古澤襄

暖かくなった。茨城県下にある中世の古城跡めぐりを始めたいところだが、黄砂、花粉、微小粒子状物質「PM2.5」の警報が出ているので、自宅に閉じこもって古い資料を整理している。
父・古澤元は大正15年(1926)に旧制盛岡中学を卒業、仙台の第二高等学校に進学した。盛岡中学の同窓生に直木賞作家・森荘巳池氏、警視庁特高課長・伊藤猛虎氏、共同通信社記事審査室長・古津四郎氏がいたが、いずれも故人となった。
写真は森荘巳池氏と私。

仙台二高の同級生では共同通信社専務理事・永山公明氏、朝日新聞政治部長、九州朝日放送会長・八幡次郎氏、東北で初の直木賞作家・大池唯雄氏らがいたが、永山氏を除いてこれらの方々からは古澤元の遺児ということで、ずいぶんとお世話になった。
いま手元にある沢内第一小学校の同窓会名簿をみている。昭和53年(1978)に開校百周年事業として発刊されているが、明治・大正年代の名簿が、昭和20年(1945)に学校火災によって卒業者台帳が焼失したために古澤元の名前がない。
古澤元は大正11年(1922)の卒業。実弟の漫画家・岸丈夫(本名 古澤行夫)は大正13年(1925)の卒業。沢内第一小学校は明治の学制発布令によって明治6年(1873)6月1日に「新町小学校」として設立されている。
岩手県下では盛岡の仁王小学校、盛岡小学校が、この年の4月に開校されたが、2ヶ月後に沢内村の山間僻地でも小学校が開校されている。
新町小学校の校地には旧藩時代の沢内通代官所が当てられた。教員は一人、旧藩士族が盛岡からやってきている。教員俸給は7円。生徒数55人。
当時、沢内村には小学校がひとつしかなかったので、村内各所から入学するようになると、教員ひとりでは手が回らない。生徒中の成績優秀な者に”級長”を申しつけ、授業料を免除して助教として採用したという。
「沢内村から未明のうちに家を出て、山伏峠を越えて盛岡に着いたら夜になっていた」と盛岡中学を受験した古澤元が回顧している。古津四郎氏は「古澤元は私の家の筋向かいに下宿して一緒に通学したが、超世間的でさっぱり勉強しないのに成績が良かった。軍人でいえば石原完爾型」と評した。
5月になれば、また沢内の地を訪れる。古澤元が沢内から盛岡、仙台、東京と辿った道を、息子が逆のコースを辿るのも何かの因縁なのかもしれない。
杜父魚文庫

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