NHKBSプレミアムで、テレビ開局六十周年記念の回顧番組を見た。いずれも大変なつかしい。
一つが「私の秘密」、一九五六年から十二年間続いたそうで、東京オリンピック(六四年)を挟んだ時期だった。渡辺紳一郎、塩月弥栄子、藤浦洸らがレギュラー、八木治郎アナが司会をしていた。ヒントを聞きながら秘密を巧みに当てていく。
また、「ジェスチャー」、こちらは開局のころから十六年間の長寿番組である。赤組キャプテン水の江滝子、白組キャプテン柳家金語楼が率いる男女両チーム対抗戦だ。ある現象をジェスチャーの演技力で当て合う。
ほかに「チロリン村とくるみの木」、バラエティー番組のハシリになった「夢であいましょう」など。高齢者には忘れ難い思い出の番組ばかりだ。
いま見ると、共通していることがある。おっとりと静か、品がいい。時がゆったり流れていくようで、それでいて、しゃれている。娯楽性も申し分ない。少々かったるい感じがないではないが、ああ、あのころの白黒テレビはよかった、とつい思ってしまう。
なぜそう思うのか。いまのテレビとどう違うのか。いろいろなことが言えそうだが、ひとつはっきりしていることがある。
笑いだ。笑いの量と質がまったく変わってきた。先のNHK番組でもそうだが、昔は静かに笑い、笑う場面も少ない。みんなが天を仰いでいっせいに大笑いするなんて姿は、ついぞお目にかかったことがなかった。
ところが、いまのテレビは笑いっ放しだ。やたら手をたたき、わけもなく笑いつのる。ほほえみはめったにない。大口をあけ、大声でどっと笑う。品がなく、哄笑というやつだ。おかしくないところも、笑いでこなそうとする。視聴者はたまったものでない。だから、すぐに見るのをやめる。
長寿の「笑点」(日本テレビ系、日曜日午後五時半)が高視聴率を保っているのは、出演者の落語家たちは控えめにしか笑わず、茶の間の私たちの方が番組中、何度か大笑いできるからだ。見終わって夕食に移ると、一杯の味もいい、というおまけまでついてくる。しかし、ほかのほとんどの番組は逆転している。
いつからこんな笑い過剰の安手の番組が増えたのか。私の勝手な推測では、過剰の元祖は関西出身の明石家さんまではないかと思う。さんまも五十七歳になるからもう若くない。確か八〇年代のフジテレビ系「オレたちひょうきん族」で一躍人気者になった。都会的なルックスも好感度よく、〈史上もっとも東京的な関西お笑いタレント〉などともてはやされた。
私も嫌いじゃない。だが、さんまはとにかく全身で笑い転げる。番組の間中、笑い続ける。見ているとくたびれるが、さんまの笑いには独特の芸があるような気もして、我慢してしまう。
この真似はできない。ところが、ほとんどのタレント、あるいはタレントのタマゴたちがさんまの笑い過剰の過剰だけを見習い、さんま人気にあやかろうとしているのではないか。とりあえず、笑いさえすればいい、と。
◇あら、とてももたないわ 九十五歳から十年日記
テレビタレントの笑い過剰が、最近は社会にも伝染しているように思えて仕方ない。居酒屋に入る。若い男たちのグループがいると、できるだけ離れた席をとるようにしている。なぜなら、彼らは間欠的に、一度にどっと哄笑するからだ。すごい音量、当方の会話はそこで聞こえなくなる。どこの居酒屋も同じことだ。
私たちの若いころは、一度にどっと、という現象はめったになかった。当然のことながら、何がどの程度おかしいかは、人さまざまだからだ。笑いのお付き合いなど恥ずべきこととわきまえていた。笑いを噛み殺す、腹の中で失笑する、苦笑してみせる、笑いにもいろいろバリエーションがあった。
話が変わるが、先日、日本エッセイスト・クラブの『会報』(二〇一三年春版)のエッセー欄に、吉沢久子さんが〈一人笑い〉という短文を書いているのを読んだ。吉沢さんは総菜料理をはじめ生活術一般の著作で知られ、すでに九十五歳のご高齢だ。
一人笑いはこういう次第である。吉沢さんは昨年から十年日記というのを使い始めた。尊敬している先生(何歳なのかな?)からすすめられて、すぐその日記帳を使う気になったという。今日は誰に会った、原稿をどこに送った、いただきもののケーキがおいしかった、などとメモ程度のもので、これなら十年は続きそうだと思ったらしい。ところが、と吉沢さんは書いている。
〈このお正月、元旦の日記を書こうとしてふと気がついた。私は一月生まれだから、もうすぐ九十五歳になる。するとこの日記が終わるのは百五歳、とてもそこまではもたないのに、どうしてそれに気がつかなかったのかしらと思った。
そうしたら、だんだんおかしさがこみあげてきて、一人で大笑いしてしまった。何も知らない人が見たら、気味がわるくなったかもしれないほど、いつまでも笑いが止まらなかった。一人笑いが止まらなかった、といえば先日も………〉
と次の話題に移っていく−−。
笑っている吉沢さんの姿を想像すると、こちらもしみじみおかしくなる。笑いが伝染してくる。そんなこと、なぜおかしいの、と若い人は言うかもしれないが、それならそれでいい。笑いたくなる瞬間は年齢によっても違うだろうから、老若いっしょに笑うこともない。老いも若きもいっしょに笑い声をあげる時だってたまにはある。
しかし、言いたいのはそんなことではなく、吉沢さんの〈一人笑い〉のように、素朴というか、虚飾のない笑いこそ貴重で、人生を豊かにすると思うのだ。ところが、テレビ画面から朝、昼、夜を問わず流れでてくる笑いの洪水は、何ともいかがわしい。
テレビ六十周年に当たって、言いたいことはたくさんあるのでおいおい書くことにするが、まずもって〈笑いのたれ流し〉だけは自粛してもらいたい。そうでないと、世の中、安っぽい笑いで汚れていくような気がして。
<今週のひと言> 民主と維新、どうしちゃったの。(サンデー毎日)
杜父魚文庫
12009 テレビは「笑い」のたれ流しか 岩見隆夫
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