12030 東条は江戸からの流れ者の家系 石原完爾   古澤襄

戦時宰相・東条英機は東京人と久しく思っていた。というのは東条は私の母校・都立戸山高校の先輩であった。戸山高校の前身である東京府城北尋常中学校(→東京府立第4中学校→東京都立第4中学校→都立第4高校)の二年から東京陸軍地方幼年学校に進学している。明治32年入学の第3期生。
古津四郎氏は東条の出自について面白いエピソードを紹介している。
東条とは犬猿の仲だった石原完爾は、京都第16師団長を解任されて、いったんは郷里の山形県鶴岡に閉居したが、昭和17年夏に東亜連盟顧問として盛岡市で第一声を放っている。
「内閣総理大臣東条英機なる男を諸君は同郷の先達と思っているようだが、東条は盛岡出身ではない。彼の先祖は江戸からの流れ者。風来坊の一芸人で、南部藩の出ではない」とやったから、警察官が「弁士、中止!」という騒ぎとなった。
石原の東条家出自説は一部は当たっているが、一部は間違っている。
盛岡市大慈寺町の曹洞宗・久昌寺に東条家先祖の墓がある。寺を訪れた古津四郎氏は若い僧侶から「東条家は代々神道で、当寺は墓地をお貸ししただけ・・・」と迷惑そうな説明を受けている。墓も結界石かと見間違う奇妙な石柱があるだけ・・・。
知人を介して久昌寺を再度訪れた古津四郎氏は、嘉永14年(1729)から慶応3年(1867)までの過去蝶(帳)を見せて貰った。南部藩士だった東条家だから過去帳に名が出ていない筈がない。
寺の過去帳を調べるのは、私も経験があるが、かなりの根気がいる作業である。昔の過去帳は仏となった月日別に区分されて、親族は肉親縁者の祥月命日を覚えていて、その日に墓参する風習があった。
明治以降の過去蝶にも目を通していたら、2月18日の数ページの中から①戒名=本照院現安妙大姉②俗名=横沢石子③死亡年=明治10年丁丑④在世年数=41年8ヶ月⑤続柄=妻⑥戸主=東条英俊・・・の記述を発見した。
英俊は東条英機の祖父。その子・英教は南部利祥(伯爵)の教育係を仰せつかった英才だったという。明治陸軍において陸軍大学校の第一期生を首席で卒業している。明治陸軍を育てたプロイセンのメッケル少佐の愛弟子で、同期には秋山好古がいる。
話を戻そう。石原完爾が「東条の先祖は江戸からの流れ者」と言ったのは一部は当たっている。第28代南部藩主・重直は江戸で育ったから文弱に流れ、南部領の凶作をよそにして能楽に耽った。江戸から能楽宝生流の師を招き、城内に能舞台を建てようとしている。
この能楽師は凡庸でない。南部領の凶作をみて重直に芸を捨て、武士一本で主君の恩義に報いることを願い出ている。君命に忠実である証左として、子孫には「英」の一字を継がせ、英勝、英正、英照、英俊と代を重ねた。”君命即天命”と心得た家柄である。
東条英機の墓は東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にある。戒名は「光寿無量院英機居士」。
杜父魚文庫

コメント

  1. keisuke oohashi より:

    古沢さんのいわれるとうり、東条英機の墓は、僕の両親の墓の近くなので、墓参のときは、いつも、見ています。
    たしか、東条家の墓と書いてあってようにおもうので、先祖代々ここに、眠ってるのかとばかり思ってました。

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