古津四郎氏は「同郷の将星たち」の最後に米内光政をとりあげている。一回目・板垣征四郎、二回目・東条英機を合わせた分量に倍する記録を残した。
<米内は太平洋戦争の敗戦処理で”救国の恩人”と表徴されている。
68歳の生涯には、彼の幼少時代の人間形成、風土環境が重く根ざしているはずである。が、彼の名声はマッカーサー占領下に記録、またはそのサイドで公刊され、舞台は国を背景にしているためか、三つ児の魂は粗雑に見過ごされているかに思われる。>
「評伝・米内光政」は昭和52年(1979)に現代史懇話会の月刊誌に発表された。多くの米内光政本を読んでいた私には、古津氏の米内光政論はユニークで独特の味わいがあった。明治生まれの古津氏は、旧制盛岡中学の先人である米内の生い立ちの証言を戦前からノートに書き記し、その集大成が昭和52年の米内光政論となっている。
旧制盛岡中学の同級生で親友だった古澤元は昭和19年(1944)7月18日の日記に「昨夕、海軍大臣更迭。野村呉鎮守府長官、島田にかわる。夕刻、サイパン全員戦死の発表あり。発表延びたるにより、かえって国民志気に悪影響あらん」と記した。
7月19日の日記に米内の名が出てくる。
<政変ありて貴顕の往来繁き如し。代議士会賑わしき由。海軍における米内大将の存在、殊に目立つ。比島より寺内、朝鮮より小磯上京す。寺内より小磯首班となるべし。夕刻、東条自刃の報入るも不確実なり。自刃せば、まさに有終の美と称すべし。
毀誉褒貶如何にかかわらず彼死してその責任の所在を示さば、一蓮托生の閣僚またその恥を知りて引退すべく。しかし現実には如何?>
多少の解説を加えれば、大政翼賛会の要職にあった古澤元のところには情報がふんだんと入ってきた。敗戦が必至とみて東条退陣による米内首班で終戦処理の動きが出ていた。サイパン玉砕でその動きが顕在化しようとしていた。
それはそれとして、古津氏の話を続ける。
<緒方竹虎著「一軍人の生涯 米内光政」(昭和三〇年版)は”緒方本”として、その後のジャーナル記事や観光ガイド書にまで決定的な影響を与えている。
緒方本の巻末、光政の年譜に出生は「盛岡市八幡町」とあるが、本文には「盛岡市下小路で生まれた」とある。そんな幼少のことなど、どっちでもいいではないかと言われるかもしれないが、実は光政の生涯を運命づけたポイントは、ここにある。
「八幡町」と「下小路」は異質な環境で、別天地のようなものである。
もし「八幡町」なら、そこは江戸でいうなら吉原遊郭の中で光政は一庶民の子として生育したことになる。「下小路」(現・愛宕町)であれば、彼はれっきとした武士の子ということになる。
下小路は愛宕山の下という意味の地名で、盛岡城誕生とともに藩公の薬草園が設けられ、その後、藩校・明義堂(作人館)の稽古所ともなった。
米内家はその明義堂稽古所正面筋向かいの武家屋敷に住んでいた。古津氏は下小路を経て旧制盛岡中学に通学している。
米内光政の名声が郷里でようやく浮かび出たのは、世界最大の超弩級戦艦「陸奥」の艦長になった頃。海軍部内では佐世保の長官になってからで、むしろ山本五十六の方が佐官時代から知られていたというから、大器晩成型だったといえる。
では、光政が武士の系譜の生まれなのに、「八幡町」という町人街、しかも遊郭の地で生育したという誤解を何故招いたのだろう。
古津氏は昭和15年秋の証言を記している。松平恒雄宮内大臣が米内らを官邸に招いて小宴を催したのだが、隠し芸の披露となった。無芸大食とみられていた米内に「まず、米内、君からやり給え」と松平。
「では、おそれながら前座を相勤めましょう」と米内は座を改め、うなり出したのが「旅の衣は篠懸けの・・・」と、長唄「勧進帳」の名調子だったから一同は唖然とした。
光政のことを知る盛岡の古老は
「光っあんの祖母が松尾神社の出ですから、その実家によく遊びに行っていた。松尾に行くには八幡町という花柳界を通らなければいかん。場所柄、杵屋栄三郎という師匠が三味線の稽古所を開いていましてな、光っあんは見よう見真似でうなり出していたが、中学の四、五年生の頃は、すっかり板についた」
「中学生で花街を通るのに光っあんは超然としていた」
「光っあんは粋人ですな。風流人ですよ。間違って軍人になったのかな」
「それにしても中学時代に覚えたものを、長い艦上生活でよく忘れずにいたものです。それが光っあんの身上です。一度の体得を失わない。頭がいいし、器用なところがある」
杜父魚文庫
12044 米内光政と「旅の衣は篠懸けの」の長唄 古澤襄

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