①――「乳臭の学生に何の政治問題が解るのか」
『絵の旅 ――朝鮮支那の巻』(石井柏亭 日本評論者 大正10年)
日本画家を父に彫刻家を弟に、明治15(1884)年に東京に生まれ、昭和33(1958)年に没した版画家・洋画家・美術評論家の石井柏亭は、北京で五・四運動が勃発し、反日機運が高まっていた大正8(1919)年の5月、上海とその周辺を歩いている。
先ず彼の眼に留まったのは纏足の農婦だった。「よくあれで労働が出来たものだと思う」と感心し、次いで今や兵営へと変貌した「寺前の広場で小人数の教練をみたが、年取ったのと若いのと、丈の高いのと低いのと入交って実に滅茶苦茶なものだ。而して彼らは暇さえあれば近隣の茶館に入って賭博でもやるのだろう。其鼠色の軍服にしても実にだらしないものだ」と呆れる。古くから伝わる「好鉄不当釘、好人不当兵(いい鉄は釘にならず、いい人は兵にならない)」の10文字の意味を知ったようだ。
また河東碧梧桐と同じように、共同墓地の異様な姿にも驚きを隠さない。上海郊外で「麦秋の野に働く農民の点々たるを見る。処々に隆起する塚がある。塚とは墓とかなって居るのはいいが、共同墓地に棺がごろごろして居る其間を歩いたりするのは気持ちが悪い。楠かなどで丈夫に出来て居る棺であるにしろ、其なかに死体が今如何なる状態になって居るかが地中に埋もれているよりも余計に聯想されるからである」と。確かに、それはそうだ。
街では反日運動に遭遇し、「辻々の少し明いた壁面には種々様々な伝単が盛んに張られていた。『餓死東洋鬼』と云うようなひどい誹謗的な文句も見える。日本と云う文字を亀の形にもじったものもある。
稚拙笑う可き漫画の類もある。工務局ではそれ等の誹謗的伝単を禁止する旨の触れを出し、巡警が一々それ等を剥して歩いたりしても、又何時の間にか貼られる。まるで飯にたかる蠅と同じで始末にいけない」と悲憤慷慨の態だ。
「東洋鬼」とはお馴染みの日本人に対する別称で、亀はアホな男を指す。些か下劣な表現だが、今風に表現すれば、東洋鬼も亀も排日のキーワードということになる。
工務局、つまりは治安当局による伝単禁止令がでると、「今度はそれに代ゆるに『堅持到底制日貨』等の文字を大書した白旗」が持ち出される。夜明け前までに「抵制日貨と云う板を作って、それを電柱と言わず壁と言わず手当たり次第に捺してゆく」。
そこで「商賈が店を閉めだした。学生等に迫られてするのが大部分であろうが、学生等は商賈の閉店は自発的と主張して居る。女学生迄が尻馬に乗って電単を配ることなどを手伝って居る」。「店が閉まると其表戸は又伝単の貼場になった」。市場も閉鎖され、住民は食糧の心配をはじめる。それでも中国人は何とかなろうが、手立てのない日本人は困ってしまう。労働者までもが罷業に入り、交通機関はマヒ状態となる。
だが北京で「曹、章、陸と云うような所謂親日的の官吏が罷められたことによって、排日運動にも一段落着がついた。市中の商賈は数日前から其店を開け出した」。だが「まだ騒ぎが静まりきったとは曰われない。市場は復旧したが、支那商店の或ものは単に日貨を排斥するに止まらず『日人免進』と云う貼札をして日本人に物を売らぬという馬鹿げた真似をして居る」。
さらには「日本人が支那服に仮装して水道とか食品とかに毒を入れて歩くと云う馬鹿馬鹿しい流言が割合に下級民の信ずるところとなって居て、それが為めにとんだ危害を被るものも鮮なくなかった」。少し普通の支那人と相貌が違っていた友人などは、「車上に在って群集に『東洋人』と叫ばれ困った」らしい。
ここで「日本人を罵倒することは中国人の暇潰しの一種」との林語堂の“至言”が頭に浮かぶが、反日感情は永遠に不滅であることを、やはり肝に銘じておくべきだろう。
②――「所詮支那程下らない国は何処にもあるまいと考えた」
『支那游記』(芥川龍之介 改造社 大正14年)
芥川を乗せた筑紫丸が上海に向けて出航したのは大正10(1921)年3月21日。遅くとも24日には上海の埠頭に降り立ったことだろう。芥川の上海到着から4ヵ月後の7月、上海フランス租界の一角で中国共産党第1回大会が行われている。芥川は、なんとも面白い時期に中国を体験したものだ。
「埠頭の外に出たと思うと、何十人とも知れない車屋が、いきなり我我を包囲した」。「我我とは社の村田君、友住君、国際通信社のジョオンズ君並に私である」。ここで芥川は、「抑車屋なる言葉が、日本人に与える映像は、決して薄汚いものじゃない。寧ろその勢の好い所は、何処か江戸前な心もちを起させる位なものである。処が支那の車屋となると、不潔それ自身と云っても誇張じゃない。その上ざっと見渡した所、どれも皆怪しげな人相をしている」と、車屋つまり人力車夫の姿に呆れはてる。
上海の中国人街を歩いて、「支那の紀行となると、場所そのものが下等なのだから、時時は礼節も破らなければ、溌溂たる描写は不可能である。もし嘘だと思ったら」と断わったうえで、今は寂れたが由緒正しき茶館の前で、「その一人の支那人は、悠悠と池へ小便をしていた」光景を記し、中国で何が起ころうが、世の中がデングリ返ろうが、「そんな事は全然この男には、問題にならないに相違ない。少くともこの男の態度や顔には、そうとしか思われない長閑さがあった。
曇天のそばに立った支那風の亭と、病弱な緑色を拡げた池と、その池に斜めに注がれた、隆隆たる一条の小便と、――これが憂鬱愛すべき風景画たるばかりじゃない。同時に又わが老大国の、辛辣恐るべき象徴である」と納得するのだが、「そう云えば成程空気のなかも、重苦しい尿臭が漂っている」と付け加えることを忘れない。
乞食に出会った芥川は、「支那の乞食となると、一通りや二通りの不可知じゃない。雨の降る往来に寝ころんでいたり、新聞紙の反古しか着ていなかったり、石榴のような肉の腐った膝頭をべろべろ舐めていたり――要するに少少恐縮する程、ロマンティックに出来上がっている」。
そこで日本の乞食と比較して、「日本の乞食では支那のように、超自然的な不潔さを具えていない」と断じた後、彼らが位置する前の「敷石を見ると悲惨な彼の一生が、綺麗に白墨で書き立ててある。字も私に比べるとどうやら多少はうまいらしい、私はこんな乞食の代書は、誰がするのだろうと考えた」と、乞食の“商法”に興味を示す。
じつは70年代戦半の香港留学時でも経験したし、最近の中国の地方都市を歩いても目にすることだが、乞食が目の前の道路に墨痕、いや白墨痕も鮮やかに自らの来歴を綴っていたのに出くわし、酷く“感激”したし、するものだ。
「字も私に比べるとどうやら多少はうまいらしい」どころか、やや大袈裟にいうなら、日本では習字教授の商売もできそうな程に上手い字も少なくない。もちろん文章も素晴らしい。ということは、こと乞食商売に関していうなら、伝統的商法は健在といえそうだ。
汚い話に戻るが、芥川は「一体上海の料理屋は、余り居心地の好いものじゃない」と苦言を呈し、上海で超一流の料理屋で友人にご馳走になった際の経験を、「給仕に便所は何処だと訊いたら、料理屋の流しへしろと云う。実際又其処には私より先に、油じみた包丁(コック)が一人、ちゃんと先例を示している。あれには少なからず辟易した」と綴る。
九江での話は、やはり一種の感動モノといってもよさそうだ。芥川の目の前を進む「船の蓬の中からは、醜悪恐るべき尻が出ている。その尻が大胆にも、――甚尾籠を申し条ながら、悠悠と川に糞をしている。・・・・・」。
芥川も相当に面食らっただろう・・・に。
杜父魚文庫
12138 【知道中国】芥川龍之介が見た中国 樋泉克夫
未分類
コメント