私もはや傘寿が近い。死ぬ前に体験記を出来るだけ遺そうと努力している。中でも日中国交回復同行取材記は最重要だと思うが、当時,同行記者団(80人)に、責任者の官房長官二階堂進は一切、発表しなかった。中国側に口止めされていたからだろう。
2012年10月、桜美林大学教授早野透は中央公論新社から新書「田中角栄 戦後日本の悲しき自画像」を上梓し日中国交正常化について田中自身の「回顧談」を明らかにしている。
日中国交正常化に先立って田中は首相就任前から、外務省中国課長橋本恕(ひろし)に個人的にレクチュアを受けていた。
日中国交正常化は歴史の流れではあったが、ポスト佐藤を狙うに最高の政策は日中国交正常化であることを田中は承知していた。以下早野の著書から引用する。
「毛沢東、周恩来の目玉の黒いうちにやらなきゃと思ったんだよ。二人は何度も死線をくぐって共産党政権を作った創業者だ。中国国民にとって肉親を殺されたにっくき日本と和解して、しかも賠償を求めないなんて決断は、創業者じゃないとできないんだ。毛沢東と周恩来が言えば、中国国民も納得する。ふたりがいなくなって2代目になったら、日本に譲るなんてことはできるわけがない」
角栄と周恩来の第1回会談は、角栄が北京に着いた1972年9月25日の午後早速行なわれた。周恩来は「大同を求めて小異を克服したい」「日本人民に賠償の苦しみを負わせたくない」(日米関係はそのまま続けて問題は無い)などと語った。
角栄談。「私は、日本は中国に迷惑をかけっぱなしだったと言ったんだ。すると周恩来はそれじゃあんたはどうするんだと切り込んでくる。
だから、私の方からここ(中国)に来たんだと答えた。
そうしたら周恩来は、日本に殺された中国人は1,100万人であると言って、どこどこでどれだけ中国人が殺されたかを言うんだ。大平(外相)も二階堂(官房長官)もたまげて聞いていたね。私は、死んだ子を数えてもしょうがないと口に出しそうになった。しかし田中角栄も政治家だ。黙っていた。
しかし黙っていてもしょうがないので、日中両国が永遠の平和を結ぶ以外に無いと話した。だけど、あなた方も日本を攻めてきたことが在ったけど上陸に成功しなかったでしょ、と言ってしまった。
周恩来は色をなして怒った。「それは元寇のことか、あれはわが国では無い、蒙古だぞ」という。そこで私は引き下がらない。1000年の昔、中国福建省から九州に攻めてきたではないか、その時も台風で失敗した、と言い返したら周恩来はたいしたもんだ「あんたよく勉強してきましたね」と鉾を収めた。首脳会談というのは、そういうものだよ」。
田中と周恩来の公式会談については日本外務省も既に公表しているから、いずれ明らかにするが、日本側に全く記録の無いのが毛沢東との会見記録である。中国側には有るだろうが、日本側には1行もない。
その理由は会見に日本側随員が一切認められなかったからである。
記録員はもちろん、通訳の同行も認められなかったからである。同行記者団に朝になっていきなり会見の模様を写したカラー写真が中国側から手交されて、はじめて「引見」の有ったことが知らされたのである。
9月27日の深夜、田中と大平外務大臣、二階堂官房長官はたたき起こされ毛の邸宅で毛と会った。毛が昼夜逆転日常を送っているのにあわされたのである。随員も通訳もなし。これでは「引見」でしかない。
<「もう喧嘩は済みましたか」と毛沢東が言った有名な会見である。角栄が「周総理と円満に話しました」と答えると。毛沢東はそばの日本通の寥承志を指して、「彼は日本生まれなので、帰るときぜひ連れて行ってください」という。
角栄は「寥先生は日本でも非常に有名です。参議院全国区に出馬されれば必ず当選するでしょう」と答える。話が下世話である。
毛沢東も調子をあわせて「日本は選挙があって大変ですね」と聞く。角栄は「街頭演説をしなければ、なかなか選挙には勝てないのです」「国会も言うことを聞きません」と答える。
角栄がマオタイを飲んだと言うと、毛沢東は「あまり飲むとよくないですよ」と答える。
「中国には古いものが多すぎて大変ですよ。あまり古いものに締め付けられると言う事は、良くないこともありますね」と毛沢東がいうのは「造反有理」の文化大革命のさなかでもあったからだろう。角栄はどこまでも無手勝流である>。
<角栄は周恩来の日本訪問を誘った。しかし青春時代を日本で過ごした周恩来は「自分は生きては日本を二度と訪問するすることは無いでしょう」と答えた。周恩来は癌におかされていた>。
それから3年後、周恩来は死んだ。
角栄が調印した1972年の共同声明には「日中平和友好条約」の締結が記されていたが、実現したのはライバルだった福田赳夫政権で園田直外相によってだった。その時私はNHKを辞め園田の秘書官になっていた。
条約の批准書を交換のため初来日したトウ小平が1978年10月24日、東京・目白の田中邸に角栄を訪ねた。
<その日、角栄は朝からうきうきしていた。「あれから6年、那害遥で瞬く間だ。人生そんなものだな。明治以来、日本の歴史は半分くらい日中問題が占めた。平和条約ができてよかった。中国大陸で自分の子を失った母、夫を失った妻の心もこれで整理がつくだろう」
トウ小平が現れた。角栄「日中の新しいスタートですな」
トウ「東洋人ですので、古いことも忘れ難い。こうしてあなたを訪問できるのはうれしい」
角栄「周恩来さんと会って入る様な感じです」
トウ「あなたが北京にこられたときは、北京の郊外にいました」
トウ小平は文化大革命で「走資派」と指摘されて失脚、強制労働をさせられていた。
――ー庭では二階堂創め田中派議員の面々40人もが待っていた。白いグラスに新潟の酒を注いで乾杯シタ。―――
角栄の政治家人生を観望して、日中国交正常化の成功は「上機嫌の時」だった。その後は「不機嫌の時代」ばかりである。しかし中国だけは角栄を「井戸を掘った人」として大事にした。どんなにありがたかったことだろう> 敬称略(頂門の一針)
杜父魚文庫
12142 今明かされる日中首脳会談 渡部亮次郎
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