12498 君征く日 軒端の足袋の 乾きけり  古澤襄

<昭和23年の10月、義弟の漫画家・岸丈夫から母のところに電話が掛かってきた。
「義姉さん、兄貴の消息が分かったんだ」
「上田の金ちゃん(注記=母・真喜の実弟)から知らせがあったんだ。兄貴は、終戦の翌年の五月には、もう亡くなっていた。兄貴の最後を看取ってくれた戦友が帰国して連絡してくれた」>
戦後、どこの家庭でもあった戦没者の悲しい知らせ。だが厚生省から「死亡告知書」が届いたのは昭和24年10月20日付け。
「右は昭和21年5月3日 栄養失調症兼心臓大(注記=肥大か)によりソ連ブリヤートモンゴール自治共和国ウランデー病院で戦病死されましたから御知らせ致します」という公報と一緒に遺骨箱が届いた。遺骨箱の中には「古澤玉次郎」と墨書された紙片が一枚入っていた。
父の最後を看取ってくれた戦友は、青森市木造町の小笠原八郎氏。叔父・岸丈夫に連れられて冬の青森に行った。
「背の高い人から先に亡くなった。あなたのお父さんは、ソ連の仕打ちをメモにしていた。戦友たちが手分けしてナホトカまで持ってきたが、身体検査で没収された」と言って、小笠原氏は「済みません」と頭をたれた。
5月3日は私にとっては憲法記念日ではない。父がシベリアで憤死した日である。小笠原氏は「ソ連の共産主義も、日本の軍国主義も間違っている。生きて帰って、このことを伝えたい。おれは死ねない!生きて帰るぞ」と最期まで熱っぽく言っていたという。
母は敗戦前後のハガキを文箱に大切に保存していた。5月が来ると私はそれを読むことにしている。
<近況は如何でせうか。兎に角切迫した時局になって、新聞を見る度に憂鬱になる。この憂鬱だけはどうすることも出来ない。決定的段階に入ったといっても、さっぱりすべてのものが、切り替わって決定的段階に入った様子にもならない。奥様によろしく。>習志野の鋼部隊から斉藤大典氏のハガキ。同人雑誌「正統」で、もっとも将来を嘱望された若き作家の斉藤氏だったが、間もなくフィリピン沖で輸送船団が攻撃されて、帰らぬ人となった。
<暗いうちに家を発った。本庁の刑事(注記=特高警察)の部居君が上野駅の車内まで手荷物を持って送ってくれた。何の因念で一番人のいやがる商売の人に、こうも親切にして貰えたか、自分には分からない。宇都宮駅までただ眠る。>昭和20年3月3日のハガキ。弘前の連隊に向かう車中で母宛に投函している。
夫を送り出した母は、この日、次の一句を詠んでいる。
君征く日 軒端の足袋の 乾きけり
母の日記には
<3月3日午前四時、元、出発す。同日昼、作家・池田源尚氏が来訪。同氏にも召集令状が来たよし。義弟・岸丈夫にも召集令状ありとのこと。15日、横須賀海兵団に入団のよし>簡潔だが、敗戦間近の切迫した空気が伝わってくる。櫛の歯を引くように召集されていく男たちを送り出す家族の思いなのだろう。
杜父魚文庫

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