参院本会議場の上階に傍聴席があるが、同じ並びに記者席がある。そこから本会議場を見下ろすと議員の頭がよく見える。
「社会党は今世紀中に消滅するな」
頭を見ていると社会党席の高齢化がよく分かる。国労、日教組など官公労が全盛時代の総評で、功成り名を遂げた労組幹部が参院議員になっていたから、若い黒髪の社会党議員などは見当たらない。
社会党の消滅は冗談のつもりで、仲間の記者たちと話をしていたのだが、1996年左派が「新社会党」、右派は「民主党」に移籍して本当に消えてしまった。
六〇年安保後に三年間、社会党と民主党を担当したことがある。社会党を動かしていたのは議員ではない。書記というプロ集団が議員を動かし、社会党の主導権を握っていた。
若い書記グループとつき合っていた昔が懐かしい。東大時代に都学連委員長だった高沢寅男氏は、党内最左派の社会主義協会の大幹部だったが、個人的につき合うと好感が持てる男だった。
だが左派書記グループの中では浮き上がっていた様に思う。むしろ広沢、笠原、小山という書記グループが中核となって、山本幸一書記長を支えていた。
私は社会党の凋落は、書記というプロ集団に新しい若い血が入らなかったことに原因があると思っている。それは突き詰めると左派書記グループと江田・成田を支えた構造改革書記グループの相克に起因している。
話はがらりと変わるが、総評の傘下労組で最左翼は新聞労連だったことを知る人は少なくなった。岩手県出身で読売争議を指導した鈴木東民氏(すずき とうみん)を知る人は、もっと少ない。
東大経済学部を出て、大阪朝日新聞に入社後に共同の前身である日本電報通信社ベルリン特派員。昭和10年(1935)に読売新聞社外報部長に転じて、反ナチスの論陣を張った。
戦後は読売新聞の社内改革を唱えて正力松太郎社長の退陣を要求した風雲児。従業員組合を結成、組合長として第一次、第二次読売争議を指導して敗北した。読売を去った鈴木氏は昭和30年(1955)に釜石市長に当選、市長を三期務めている。
反骨の一生だったが、これだけ波乱にみちた生涯を送ったジャーナリストは少ない。
杜父魚文庫
12507 反骨の一生だった鈴木東民氏 古澤襄

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