八月十五日は”敗戦の日”だが、私にとっては日本陸軍の異端児・石原莞爾将軍の命日と心得ている。GHQの軍政下にあったから、極東軍事裁判の酒田臨時法廷は検閲で秘匿され、日本独立後に初めて全容が明らかになった。
「国際法で非戦闘員は爆撃してならないとしているのに、トルーマンは一般住居を爆撃し、長崎、広島に原爆を落とした。トルーマンこそ第一級の戦争犯罪人である」と言い放った石原莞爾氏。
酒田臨時法廷で「満州事変のすべては私の命令で始めた。戦犯に指名されないのはおかしい」と石原莞爾氏は主張したが、米側裁判官は「ジェネラルを戦犯として裁くつもりはない。証人として調べるだけだ」と狼狽して対応している。
極東軍事裁判で「トルーマンこそ第一級の戦争犯罪人」と吠えられては法廷は混乱する。本人はみずから戦犯の名乗りをあげたのに”お咎めなし”となった酒田臨時法廷を知る人もいなくなった。
<敗戦の日がくると日本陸軍の異端児・石原莞爾将軍を偲ぶことにしている。東条英機首相と反目した生涯を貫いている。この人物ひとりのために、極東軍事裁判は酒田(山形県)臨時法廷を開いている。
昭和二十二年五月一日と二日に石原氏に対する証人尋問が行われたが、このために東京から八両連結の特別列車が仕立てられて、総勢八十五人が酒田にやってきた。体調を崩していた石原氏は、軍服に古オーバーをひっかけ、療養先の西山農場からリヤカーに乗って、飄然と法廷に乗り込んでいる。
酒田臨時法廷に先立って担当の裁判官が西山農場に石原氏を訪ねてきている。満州事変の立て役者だったから石原訊問は欠かせない。石原自身も自ら戦争犯罪人の名乗りをあげていた。
米軍将校の取り調べで「戦犯の中で誰が第一級だと思うか」と聞かれた。確執があった東条首相をあげるか、戦犯の名乗りをあげている自分が第一級と言う回答を期待していた。ところが石原氏は臆することなく「それはトルーマンだ」と言い放つ。
度肝を抜かれた米軍将校に対して「国際法で非戦闘員は爆撃してならないとしているのに、トルーマンは一般住居を爆撃し、長崎、広島に原爆を落とした。トルーマンこそ第一級の戦争犯罪人である」と言った。
何とか東条首相を第一級の戦争犯罪人と言わせたい米軍将校は「あなたは東条と意見が対立していたというのは本当か」と質問を変える。石原氏は「そんなことはない」と即座に否定して「東条には思想もなければ意見もない。私にはそれが若干ながらある。思想もなければ、意見もない者と対立できる筈がない」と言って横を向いた。
ソ連将校もきた。「石原氏の天皇に対する崇拝の念は”信仰”なのか」と質問している。「お前はスターリンを神のごとく信仰しているくせに、他人の信仰をさげすむ下司野郎だ。トットと帰れ」と怒鳴ってソッポを向いてしまった。こんな男を戦争犯罪人に指名したら極東軍事裁判はかき回されるという声が連合国の中に生まれている。「触らぬ神に祟りなし」というのが、石原莞爾将軍が戦犯にならなかった理由ではないか。
西山農場に派遣された裁判官は証人尋問のために石原氏が極東軍事裁判に出廷すること求めた。「私の病状が悪化していて、医者から絶対安静を命じられている。そちらが出張してくるなら、何とか出廷ができるだろう」と石原氏は答えた。事実、裁判官の目からみても石原氏の病状はかなり進んでいた。
そこで「西山農場で臨時法廷を開く場所がないから、酒田市で適当な場所を見つける。酒田市までの道路は責任をもって補修する」ということになった。臨時法廷の場所は、市の商工会議所になった。石原氏のために米軍から軍医まで派遣されている。
ジェネラル・石原証人に対して判事は「証人石原は英語が話せるか」とまず聞いた。石原氏が英語を話せないわけはない。だが「日本語ならチョッピリ話せる」と山形弁で答えている。法廷は爆笑で包まれた。
裁判長は静粛を求めて「訊問の前に何か言うことはないか」と聞いている。
「ある。大いにある」と石原証人は病人とは思えない大声で答えた。「満州事変のすべては私の命令で始めた。戦犯に指名されないのはおかしい。そのことについて発言したい。少し長くなるが、ご容赦願いたい」と言ったから、裁判官も検事も狼狽した。
裁判官は「ジェネラルを戦犯として裁くつもりはない。証人として調べるだけだ」といい検事は「証人はそのようなことを言ってはならない。当方の質問にイエスかノウと答えるだけでよい」。この検事は「満州事変の被害程度はどうか」と石原氏に尋ねた。
「ご指示にそえなくて申し訳ないが、日本には被害程度を表現するのにイエス、ノウの言葉を使わない。すみませんね」と石原氏は答えたから、法廷はまた爆笑に包まれた。
法廷で石原氏は事実関係については包み隠さず述べている。裁判官はニュージーランドのノースクロフト氏だったが、石原ジェネナルの泰然自若たる態度に感動している。検事は英国人のダニカン氏だが、イエス・ノウ発言について「つまらない訊問をしてすまなかった」と閉廷後に詫びている。石原氏も「あまりお役に立てなくて、お気の毒でした」と答えた。
これらのやりとりは、軍事裁判の威信に影響する部分は、GHQ検閲ですべて削除されている。酒田臨時法廷から二年後、昭和二十四年八月十五日に石原莞爾将軍は、この世を去った。六十一年間の波乱に満ちた人生であった。(杜父魚ブログ)>
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