杜父魚ブログはとうとうユーザー数が3万6000台に乗った。30日のユーザー数は3万6091。どういうわけか、昨年の大晦日に書いたエッセイ「浅草と人民文庫の二世たち」がトップ・テンで読まれている。
文中に出てくる武田麟太郎の長男・文章君(詩人)と次男・穎介君(毎日出版部)は、この世にはない。人民文庫の二世たちも「マツゲン(松元真)」と「トモチャン(堀江朋子)」に私の三人だけとなった。
トモチャンが書いた「風は海から」は、いま読んでも情念がこもったいい文章だと思う。新宿の「みち草」には、私も何度か通ったが、みんなの党の渡辺代表の叔父に当たる渡辺幸雄さんを連れていったら、「ジョウ兄貴、こんな左翼のたまり場で飲んでいるのか」とからまれて往生した。
その幸雄さんも66歳で亡くなって10年が去ろうとしている。「みち草」もいまはない。あらためて「浅草と人民文庫の二世たち」を再掲して、亡友たちをしのぶ一夜にしようと思う。
<<浅草と人民文庫の二世たち 古澤襄 2012.12.31 Monday name : kajikablog>>
浅草にはよく行った。常連はテレビ朝日の報道局長・松元真、民族学振興会の堀江朋子に私の三人。三年間の福岡勤務が終えて経理局長になった頃だから、私も「マツゲン(松元真)」も五十三歳。八歳年下の「トモチャン(堀江朋子)」は四十五歳。
この三人組に武田文章や穎介が加わって「人民文庫の二世たち」としゃれ込んで浅草のバアで飲み、かつ議論した。
人民文庫・・・武田麟太郎が主宰したプロレタリア文学雑誌だが、高見順、新田潤、円地文子、田宮虎彦、渋川驍、上野壮夫、平林彪吾、古沢元、本庄陸男、井上友一郎、田村泰次郎、矢田津世子といった若き作家群が作品を発表している。
全巻26冊揃いの人民文庫は復刻本が現れるまで”幻の書”といわれていた。戦争中の爆撃、疎開などで消失して、残ったのは渋川驍、古沢元蔵書の2巻しかなかったためである。古沢元蔵書の合本2冊は東京の日本近代文学館に昭和45年に寄託展示された。
復刻本が出来たので平成11年になって日本近代文学館から返還され、岩手県西和賀町の玉泉寺資料館に人民文庫作家の初版本81冊とともに保存されている。日本近代文学館の寄託契約書(昭和45年)と返還契約書(平成11年)も展示された。
マツゲンの父は平林彪吾。日本プロレタリア作家同盟から武田麟太郎が主宰した「人民文庫」に参加、「肉体の罪」「震撼された易者」「女の危機」「血の値段」などの作品を次々と発表した。
1935年に「文芸」懸賞小説に当選した「鵜飼ひのコムミュニスト」が代表作といっていい。だが火野葦平は平林の代表作を「月のある庭」と位置付けている。
マツゲンはことしの年賀状で「年末に思い切って”老人ホーム”に入居致しました。新年のご挨拶を新しい棲家から申し上げます」とあった。明日、元旦の年賀状が楽しみ。
トモチャンは上野壮夫・小坂多喜子の夫婦作家の次女。父・上野壮夫の伝記小説「風の詩人 父上野壮夫とその時代」を1997年に発表している。母の小坂多喜子には「わたしの神戸 わたしの青春」(昭和61年)の著書がある。
小坂多喜子は二・二六事件の回想文を遺している。
<<上高田の古沢元の家には島崎藤村の息子の翁助や杉浦幸雄、清水崑らの漫画家たちが出入りしていた。二・二六事件のときは夫の上野壮夫と一緒に古沢元夫婦のところに居て、四人はラジオで聞く皇居を取り巻く不穏な空気を想像し、顔を見合わせていたことが、思い出される。やがてじっとしていられないらしい二人の男どもは、交通が途絶えて、しんとした雪の中を、都の中心をめざして出ていった。>>
人民文庫の二世たちで、一番、文章が上手いのはトモチャンではないかと思うことがある。「風は海から」を大晦日に読み返して女流作家の筆使いには、男には描けない世界があると覚っている。
<風は海から 吹いてくる
沖のジャンクの 帆を吹く風よ
なさけあるなら 教えておくれ
わたしの姉さん どこで待つ
◆新宿西口の酒場”みち草”で、初めて耳にした唄である。みち草の客で、新宿生まれ、新宿育ちの中村さんのスタンダードナンバーである。伴奏はギター流しのマレンコフ。哀切な歌詞とメロデイを、中村さんは、ボーイソプラノのような細い、高い声で、時には声を張って歌いあげ、時には切々と語りかける。私はすっかりこの唄に魅せられた。
◆「風は海から」は、昭和十七年、東宝製作の映画「阿片戦争」の主題歌である。作詞西条八十、作曲服部良一、唄渡辺はま子。「阿片戦争」の監督はマキノ正博、出演は市川猿之助、原節子、高峰秀子、鈴木伝明、河津清三郎、進藤英太郎。戦時下の国策映画の一つで、イギリスの中国への不当な干渉、阿片戦争に題材をとっている。
◆物語の舞台は一八三九年の中国。阿片を流し、侵略を計るイギリス側と、阿片から人民を守ろうとする清の役人林則除との戦いを軸に、戦乱に巻き込まれて離れ離れになる美しい姉妹の物語が描かれている。美しい姉妹を演ずるのが原節子と高峰秀子。国策映画にもかかわらず、その枠を越えて、日本映画史上でも傑出したスペクタクル史劇であり、ミュージカル場面もすばらしいとの評判をとった作品である。
◆昭和十五年生まれの私には、この映画の記憶も、唄の記憶もないが、私より少し年配の人達は、学校の教師の引率でこの映画を見に行ったという。中村さんは昭和十八年の生まれだから、私と同様この映画も、唄も、直接は知らないが、若い頃通ったママさんが歌っているのを聞いて覚えたのだそうだ。
青い南の 空みたさ
姉と妹で 幾山越えて
花の広東 夕日の街で
悲しく別れて 泣こうとは
◆中国の奥地から、手に手を携えて、港町広東にやって来た姉と妹が、戦乱に巻き込まれ、離れ離れになってしまう。風よ、海から吹いてくる風よ、姉さんに逢わせておくれ、妹の切なる願いが胸を打つ。姉とはぐれた妹の気分になって中村さんの唄に涙するのは、私が二人姉妹の妹という理由からだけではない。
◆昭和二十一年秋、私たち一家四人は満州奉天(今の瀋陽)から引き揚げてきた。その途中、私は怪我をして高熱を出した。「すんでのことで、あなたを中国に置いてくるところだったのよ」と私が小さい頃、母は何度か言ったことがある。引き揚げの時、私は六歳になったばかりだったが、怪我をしたことは記憶にある。その時、中国大陸で乗った列車は無蓋車、父と姉は板一枚の囲いもない車両、列車から振り落とされないように周りに荷物を置いてその中に座った。私と母は低い囲いがある車両に乗った。私はそこで転んで額に傷を負ったのである。
◆しかし、そのことが、もしかしたら母の言うような状況をもたらすとは知る筈もなかった。中国大陸に置き去りにされていたかも知れないとう想像は、私を感傷的な気分にさせる。もちろん。中国孤児が置かれた苛酷な状況はあまちょろい感傷などよせつけない。
◆孤児として生き残れたならまだしも、引き揚げの途中で生命絶えて、柩もなく、ぼろ布に包まれて海に流された幼子の亡骸も目の当たりにした。もしかしたら、私の思考や生き方の基本に、幼児のころの、満州での生活や、引き揚げ体験があるのではないか、と時々思うことがある。
◆帰って来られたから、みち草で酒を飲める。中村さんの唄に感傷的な気分になれる。時代も状況も違うが、物語と、あったかもしれない現実とを重ね合わせて、私は中村さんの唄に耳を傾けるのである。風よ、海から吹いて来る風よ、私の姉さんは何処にいるの・・・。
◆海から吹いてくる風、特に海岸に向かって直角に吹く風を、”あいの風”という。あいの風、ふきあいの風、すなわちいろいろなものを吹き寄せる風なのである。魚を吹き寄せ、大漁を約束する風、人を呼び寄せる風、ものを運ぶ風、便りを持ってくる風。様々な出会いをつくる風である。そのあいの風に妹は姉との再会の願いをかけたのだ。
◆そういえば、私が通いはじめてから二十年近くが経ち、今でも週一回のわりあいで足を運ぶ酒場みち草も、さまざまな出会いと別れの場所でもある。みち草は昭和二十三年に先代のママ、小林梅さんが、ハモニカ横丁に店を開いてから、二幸(現在アルタ)裏、西新宿のこの店とかれこれ五十年の歴史を持つ。店内には、先年亡くなった詩人草野心平の「みちくさ」の看板の書彫りが掛かっていて、酒場の様々な場面を黙って眺めている。
◆かっては中央線文士の集まったこの店の現在はと言えば、元なになにと肩書に元がつく中高年が多い。現役組も大学教授、編集者、デザイナー、写真家、絵かき、能狂言役者、演出家、税理士と多士済々だが、現役引退も遠い先の話ではない年代の人達が殆どである。三十台、四十台はほんの僅かである。
◆飲み代は適正価格、梅さんが亡くなった後、店を継いだ二代目ママの山口和子さんが、手際よく造る酒の肴も庶民的なもので、札びらを切るお大尽はここの客筋にはいない。
◆西新宿の超高層ビルが立ち並ぶテクノシテイから道一つへだてたこのあたりは、小さな酒場や”個室ゆ”やストリップ劇場が雑然と立ち並ぶ。しかし、歌舞伎町のようなけばけばしさや、猥雑さがないのは、ネオンの暗い古い町並みに哀愁を感じるせいか。路地の角の”いも亀”という大学芋屋が、いつのまにかドラッグストアになっていたり、みち草の前の古い旅館が、瀟洒なビルに変わっていたりするが、路の佇まいにあまり変化を感じさせなのは、広大な墓地が付近にあるせいだろう。
◆みち草の入っているビルの裏も墓地である。その向こう側にはこの墓地の持ち主である日蓮宗の寺、常円寺の本堂がみえる。江戸時代建立の寺で、この辺一帯の地主でもある。みち草の入っているビルの下も昔は墓地であった。
◆ビルの裏窓からふく風も、ビルの下から吹く風も、冥界から吹いてくる風であるわけだ。みち草に集う中高年は、おのずと鬼籍に入った人達の思い出話に花を咲かせ、自分の来し方、行く末に思いをいたすのである。また、ここはかって、王子の飛鳥山と並ぶ花見の名所でもあった。今と同様、人々の歓楽の場所と墓地が隣合わせであったのだ。生と死と、歓楽と滅びと。そうして見ると、墓場に覆いかぶさるように聳え立つ高層ビル群も、崩落の予感につつまれる。落日があるから今が美しい。滅びがあるから今がいとおしい。(杜父魚文庫)
杜父魚文庫
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