12977 江沢民の政敵、陳希同が死去。葬儀は寂しかったが  宮崎正弘

六四評価を避けて、死亡の公表は翌日、葬儀には田紀雲らが出席した。1989年6月4日の天安門事件は中国の多くの政治家の運命も変えた。当時、北京市書記は陳希同だった。辣腕の大物政治家、改革の旗をふり、人気も高かった。
学生集会への武力弾圧に反対した趙紫陽は総書記を解任され、連なって改革派の田紀雲らも主流から転げ落ちた。民主活動家の多くは地下のネットワークを通じて、欧米へ逃げた。
青天の霹靂だった。当時、無名の上海書記の江沢民が北京に呼ばれ、二階級特進で総書記となった。トウ小平が独裁的に決めた人事だった。
当然、ベテランである陳希同にとって面白いはずがない。北京にやってきた江沢民に嫌がらせ、小僧扱いをしたのも当然といえば当然だろう。
江沢民の右腕だった曾慶紅は、陳希同にえん罪をかぶせ、失脚させる陰謀を実践する。当時、陳希同の副官だった王実森・北京副市長の汚職を追求し、誇大に罪状をでっち上げ、「汚職で肥って豪邸に住み、豪華ホテルのスィートを長期に借りて愛人が16人もいる」という、「まことしやかな」噂を流した。
王は追い込まれて「自殺」した。これが事件の発端となり、98年、陳希同は「汚職」の罪で起訴された。陳希同は当時、反腐敗キャンペーンの先頭に立っていた。懲役16年、内蒙古自治区の監獄へ送られ、完全に政治生命が絶たれた。
16年間もの獄中ですっかり体力をなくした陳希同は、希望も政治的野心も失っていた。服役後、病を得て北京に戻され、入院生活。2013年6月2日、永眠した。享年83歳。
6月4日の天安門事件24周年直前という微妙なタイミングだったので、死が公表されたのは、6月5日である。
 ▼けっきょく、陳希同は不運な政治家だった
11日に葬儀が執り行われ、荼毘に付された。葬儀には百余人しか参列者はなかったが、白菊三千本の花輪がならび、出席者の中には田紀雲、李其炎・元北京市長らの顔をもあった。遺族からは陳小希、陳小同が出席した。 
しかし遺族が望んだ八宝山墓地への埋葬は許可されなかった。
陳の失脚後、改革派の恨みは消えていなかった。
江沢民の副官格で上海書記だった陳良宇は、胡錦涛への嫌がらせを膨らませているうちに不動産投機に失敗、これが団派に逆襲され、同時に派手な汚職がばれて、懲役18年、山東省の監獄に入った。
陳をかばえなかった江沢民は、胡錦涛らの隙を突いて次期総書記に習近平をあてる画策を始めた。浙江省書記だった習は、いきなり上海書記に抜擢され、さらに二段階特進で政治局常務委員、団派の抵抗力がない間にさっと次期総書記のポストを確定的とした。
やはり胡錦涛を小僧扱いし、次の政治局常務委員を画策して強引に立ち回った薄煕来は、空前の汚職を問われ失脚、裁判中である。夫人はイギリス人殺害を認めたため、死刑判決(執行猶予)を受けた。
杜父魚文庫

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